今日は松方さんも、たくさん集めていた
印象派の絵画です。きれいな色使いは、
日本の浮世絵にも通ずるのか、日本人
は印象派の絵画が好きですね。
印象派の代表的な画家の、絵画の一部
の紹介です。
最初にルノワールです。
父は仕立屋、母はお針子でした。3歳の時に一家でパリに移住し、
ルーヴル美術館に近い都心に住みます。
なります、産業革命や機械化の影響は、伝統的な磁器絵付けの
世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失います。なので、
ルノワールは画家を目指します。1862年にはエコール・デ・ボザー
ル(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレ
ールのアトリエ(画塾)に入り、ここでモネ・シスレーら、後の印象派
の画家たちと知り合っています。画塾で制作中のルノワールに師の
グレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」
と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きません
よ」と答えたというエピソードは著名です。
初期にはアングル、ドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義
のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化
が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。
日本などのフランス国外でも、人気の高い画家です。

ルノワール「風景の中の3人」
次に、セザンヌですが、私も好きな画家です。
ポール・セザンヌ(1839年1月19日 ~1906年10月23日)は、
フランスの画家です。当初はクロード・モネやピエール=オーギュ
スト・ルノワールらとともに、印象派のグループの一員として活動
していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的絵画の約束
事にとらわれない独自の絵画様式を探求します。ポスト印象派の
画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世
紀の美術に多大な影響を与え、「近代絵画の父」と言われる。
友人のコネを頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、
公に認められませんでした。
セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価
されるようになるのは晩年のことでした。本人の死後にその名声
と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌ
で開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼ
した。この展覧会を訪れた画家としてはパブロ・ピカソ、ジョルジュ
・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられます。

セザンヌの「ポントワーズの橋と堰」
次に、印象派の代表格のモネです
松方はモネの家まで行って、彼に会っています。
クロード・モネ(1840年11月14日 ~ 1926年12月5日)は、
印象派を代表するフランスの画家です。「光の画家」の別称が
あり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわ
たり追求した画家です。モネは印象派グループの画家のなか
では最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ
多数の作品を残しています。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン
らはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進みますが、
モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的
な印象派の画家でした。
1883年にジヴェルニーに移り住んだモネは、1890年に同地
の家と土地を正式に購入。1893年には土地を買い増して池を
造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張します。
しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造
ったものです。睡蓮や池をモチーフとした作品は1890年代半
ばから現れますが、本格的にこのテーマに取り組むのは1895
年からです。同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋
とをテーマとした連作を手がけ、18点制作しました。1900年頃
からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』
ばかり描きました。
(ウィツキペディアより引用)

モネの「雪のアルジャントウィユ」
最後に
モネ展のお知らせ
21年ぶりに来日する《印象、日の出》やモネの代名詞《睡蓮》
の連作など、マルモッタン・モネ美術館全面協力で、2015年
9月19日から12月13日まで、東京都美術館にて開催です。
また、2016年3月1日~5月8日までは京都市美術館にて
開催展示します。
東京都美術館の位置は下の地図にあります。

上野公園の国立西洋美術館の北側にあります。
今日はここまでです。
明日は最終回です。
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