この地点の記念碑が下の写真です。

東西高野街道合流点の記念碑
東高野街道は京都からですが、近世は淀川を船で下り、堺で下船し
西高野街道を通るのが一般的でした。

この記念碑の向こう正面は南海河内長野駅です。左はノバティー長野です。

グーグルの地図ですが、一番下の矢印の所に合流記念碑があります。
少し北側のところで、赤(西高野街道)と黄色(東高野街道)の点線が
交わっています。ここが合流地点と言えるところです。下の写真です。

本来の合流地点です。
しかし、ここは建て混んでいて、記念碑を設置する場所がないので、
すこし南の表通りに設置されました。さらに、旧長野町内にはいくつも
の道(バイパス)があり、必ずしもここで合流とはならなかったようです。
最近、写真中央の建物が取り壊されましたが、記念碑はその前に
設置されていた。なのでここに記念碑を造れなかったのです。
次に西高野街道が合流点に至る、少し手前の道の写真です。

割坂地蔵の写真です。
この割り坂が終わり、少し歩くと東西高野街道の合流点があります。
さらに、長野駅前の広いメイン道路を渡ると、南に吉年家が見えま
す。下の写真

大きな楠木がある旧家が吹屋吉年家です。現在も市内に大きな吉年可鍛という工場
があります。写真右側の道(赤い舗装)は高野街道です。
そして、ここにも高野街道の記念碑があります。この続きの
吉年家の歴史は明日UPの予定です。

