応仁の乱の導火線となる嶽山城の戦い2 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

3日おきに更新しています。

  嶽山城の解説については前回にあります。
 寛正元年(1460年)12月19日から寛正4年(146
3年)4月15日の間に河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)
で行われた戦闘です。父畠山持国から家督を譲られたが、
細川氏と政長派からの謀略で、京都を追われた畠山義就が
嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。あと8ヶ月
長引けば3年になる。ここまで長期間籠城できた原因は下図
の嶽山城の広さにあると思います。頂上部分は南北約600m
東西約200mあり、畑で作物も作れるし、③には池がある。

$みどりの木のブログ

嶽山城の頂上部の地図(茶色の線が城域)で大きさがわかる。
$みどりの木のブログ

嶽山城の遠望写真です。
左側は切れてますが、右側のような谷になっています。


$みどりの木のブログ

③の池

地下には水脈があり井戸を掘れば水が出る。
次の原因として、細川氏と政長派軍に対して、周辺の寺院や
豪族が畠山義就を支援していた。奈良県の豪族越智氏さえも
支援していた。このため周辺の河合寺なども兵火にかかり焼
け落ちた。この山だけで孤立していなかった。そのような
ことも原因と思います。


$みどりの木のブログ

岡山大学図書館所蔵の古地図


幕府軍の嶽山城攻撃が始まったが、義就の抵抗は激しく攻撃
はことごとく撃退され、1年半後の寛正3年(1462年)
5月12日に支城の金胎寺城をやっと落とした。包囲中に
長禄・寛正の飢饉が発生したり、成身院光宣(筒井氏の一族
で僧侶ですが、軍師のような知恵者であった。興福寺末寺の
衆徒・六方衆の棟梁)らと対立していた越智家栄が義就に
協力していたことなども長期化の一因となっていた。
 しかし、1463年4月に成身院光宣 (じょうしんいん
こうせん)が物資の補給路を断ったので嶽山城は落城します。
 義就はひとまず高野山に逃れ、紀伊を経て最終的に吉野に
落ち延びます。
 細川勝元は政長を通して畠山氏を押さえ込むことに成功、
派閥を拡大した。しかし、勝元と協力していた山名宗全は
勝元を警戒、寛正6年(1465年)に義就・斯波義廉らと
結託して勝元派の打倒に乗り出した。義就も宗全・義廉の
支援で文正元年(1466年)に挙兵・上洛して政長の追
い落としを図り、反発した政長が義就と交戦(御霊合戦)し、
応仁の乱を勃発させた。



$みどりの木のブログ

現在の嶽山城跡にあるかんぽの宿正面(南側から撮影)
龍泉寺と同じ水源(温泉のため龍泉寺の湧水量が減ったそう
です)の温泉(冷泉)があり、最上階の露天風呂などから
は、金剛・葛城山とか明石海峡大橋や神戸・大阪市内の夜景
が見える。