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目に見える状況がどんどん拡大していく。
生きる世界がどんどん広がっていく。
自分を取り巻く数字や人数がどんどん大きくなっていく。
そんな、私がずっと持っていた「成長」の定義では図ることができないような
何かすごく大切な尺度がある。
それが何なのかを考えていて、分かったんです。
目に見える世界が成長していくことと、人として成熟していくことは
まったく別のこと。
そして、目に見える世界を成長させ続けるかどうかは、それぞれの【好み】でしかなくて
たとえ、成長させることを選ばなかったとしても
自分の場所で人間として成熟していくことはいくらでもできる。
だけど、私はそれらをぜーーーんぶ一緒にした、とても雑な捉えかたをしていました。
だから、
目に見える状況がどんどん拡大していて、
生きる世界がどんどん広がっていて、
自分を取り巻く数字や人数がどんどん大きくなっていく人こそが
人としても成熟した素晴らしい人である。
単純にそんな風に思ってた。
そして、田舎にはそんな人がいなかった。
みんながそれぞれ自分の場所で、変化が少ない生活の中で、世界を広げることなく過ごしているように見えたから
私はもっと成長できる環境に行きたいと思っていた。
だけど、そう思っていた頃の私は
なーーーんにも分かっていなかったのです。
「成長」を辞書の意味通りに「物事の規模が大きくなること」と捉えて
目に見えるものだけを見ると、確かにそうなるのかもしれない。
だけど、前述したように
「成長」と「成熟」はまったく別のものなのだ。
目に見える数字がどんどん大きくなっていなくても
目に見える世界がどんどん大きな規模に育っていかなかったとしても
目に見えない場所で静かに深まっていくもの。
それが人間としての「成熟」なのだと感じてる。
玉ねぎを掘ったからと言って、何かが拡大している訳ではないけど
食べ物を作ってくれている人や、食べ物自体への有り難さは深まっていく。
私のおじいちゃんは、毎日毎日同じように畑と田んぼで作業していたけど
どの季節も、何時に太陽が上り・沈むかを完璧に把握していた。
近所のおじさんは、法事のときに私の息子が数珠をひっぱって紐を千切ってしまったのに
1ミリも(本当に1ミリも)まっったく嫌な顔を見せず、私に気を遣わせなかった。
田舎でよく感じる「はっ」とするような瞬間は、目に見える【成長】ではなくて
目に見えない、人間としての【成熟】を感じる瞬間だった。
目に見える状況がどんどん拡大していて、
生きる世界がどんどん広がっていて、
自分を取り巻く数字や人数がどんどん大きくなっていったとしても、
人間として成熟していないことはある。
もちろんその逆で、目に見える状況に変化がないように見えたとしても、
その人の内側が日々豊かに広がり続けることで、人間として深く成熟していることもある。
そういった事実を見ることができず
目に見えるモノサシだけで全てを測っていた自分のことを恥ずかしく感じるし、
そんな自分のモノサシで「田舎にいると動きがないから成長できない」なんて思っていたこと自体が
視野が狭くて未熟だったなぁと、今は思う。
私の好みとしては、目に見える状況もどんどん「成長」していきたい気持ちはあるけど
同時に人としても「成熟」していきたい。
目に見えるものはもちろん大切だけど、
常に見に見えないものを見ようとすること。
変わらないように見える田舎の風景は、私にそんなことを教えてくれているように思えました。

