物心つくまえは

どんな自分にも満足していたかもしれない。





「満足」なんて言葉もわからないから

ただただ自分の気の向くまま

その時の気分で日々を過ごしていたと思う。






だけど、

いつの頃からか、私の「満足」は

「おかあさんの満足」が基準になって





おかあさんが満足してくれるかどうかで

自分自身への満足度が決まってくる、

そんな風に感じていました。





きらいなピアノも

うまくできないバレエも

おかあさんが満足するならと

がんばった。





学校だって毎日行った

ほぼ皆勤賞って…すごいけど

今思うとゾッとする。

休みたい日もあっただろうに。







続けることで、何でも自分でできる

ことで、おかあさんが満足してくれるなら

おかあさんが笑ってくれるなら…

私はがんばったよ。





おかあさんが安心して満足できるなら…

っておとうさんとおばぁちゃんの

間にも入ったよ。つなぎになりたかった。







でもね、





おかあさんは一向に満足してくれない。





硬筆でコンクールにだしてもらえる

ことになっても、「ちゃんと書きなさい」

ってコンクールとか担任の先生の方を

向いていた。





ピアノもバレエも「芽がでなかった」

ってがっかりしたような言葉がきた。

「凡人の血だから…」って

申し訳なさそうだった。





結婚して披露宴を上げたら親孝行になるかと

思ったけど、喜んでくれたけど

100%の満足は得られなかったみたいで

後味が悪かった。





プレゼントをあげても

おかあさんの満足は感じられなくて

心の片隅にかなしさを感じたこともある。





どんなにやっても

どんなにがんばっても

おかあさんの満足度はよくて60%…





その満足度が私自身に跳ね返る。

どんなにやっても

どんなにがんばっても

結局欠けてるから




自分自身にも満足を感じられなかった。










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ずっと欠乏感がお腹の奥底に

重たくあって、そこを隠すように

生きてるなぁって







でも、




その感覚の裏にあるのは





「今の自分に満足したい」





という望み。





「今」って、「過去の今」「5才の今」

「昨日の今」「今この瞬間の今」





どんな時の「今」も

どんな状態の「今」も



うかれてる「今」も

落ち込んでる「今」も



失敗しちゃった「今」も

できちゃった「今」も



おかあさんに

満足してもらえなかった「今」でさえも





瞬間、瞬間





そのときの自分に満足できたら

それでいい。





「今の自分に満足したい」




ただそれだけが私の望みなのかもしれん…




おかあさんや誰かの満足じゃなくて

自分が自分に満足したいの。





それは



認めるということ?

許すということ?




なのかもしれないけど、

「満足」という言葉がしっくりと

しゅわしゅわと安心感をもたらす。





そんなことを今朝思いました。





よしよし、


頭の中の「おかあさん」から

ちょっとずつ卒業に向かってる。