人の振り見て我が振り直せ









これ、私にとって「不快」「迷惑」「最低」と思うことをやっている人を見たら、許しましょう
って意味な気がする
「不快」「迷惑」「最低」と思っているその他人の言動を、実は私も日頃しているのだという投影なのではないだろうか
「あなた、自分でやってて気づいてないでしょ」っていうメッセージな気がしてしょうがない
「あの人がやってたみたいな、あんなこと、私は絶対にしないようにしなくちゃ」
そんな風に生きていた、過去の私....
「あんなこと」をする人ばかりが次々と目の前に現れた
私は、それでも頑なに
「私は絶対にあんなことしないぞ」
と、「私の方が正しいのだ」ということを常に自分に言い聞かせていた
私は常に周りを評価し続けていた
1番の投影先が母だった
私は人を拒絶するような生き方はしない
私はあんな冷たい人間にはならない
この縛りが「周りの人達のあんな言動」を見る度に、私の中に「正義の怒り」を呼び起こす
「私が許せていない私の部分」が「他人の迷惑•不快な言動」という投影で私の目の前に次々と現れる
「私が許せていない私の部分」
それを、許していいんだよ
そんなに周りからの評価を心配しなくていいんだよ
って伝えてくれている気がする
「私は、しないようにしなきゃ」「直さなければ」というより、許してしまえば、私を縛る「私だけの正義」から解放され、「自由」にまた一歩近づくのではないか
自分の世界に存在する全ての人々や生き物
私に
「自分を許し、受け入れていいんだよ」
「ただ選びながら、自分の人生だけを生きてきいけばいい」
ということをひっきりなしに教えてくれている気がして仕方ない
自分を許した時、
それまで眉間にしわ寄せて見つめていたあの人に優しい気持ちを抱き、自分の世界が柔らかな広がりを増した喜びに包まれる
自分を許した時、気付かないうちに自分に向けていた怒りだけが、自分を苦しめていたという驚きとともに長い眠りから目が覚める
自分の、無価値さ、不躾さ、無能さ、冷淡さ、などの数々の自分を許しながら、受け入れながら、広がりを増していく私の人生
自分自身を責め続ける心が、周りを責め続ける
「あんなことしたくない」
のならば、ただ、私はしなければいい
でも、「あの人」は、それをしたいのだからすればいい
だって、決して間違ってはいないのだから
「あの人」にとっては、したいこと
私は、その人の世界を何も知らないのだから
私のジャッジがこの世には完全不要なものだと気づいた時、実はこの世界は優しさで満ち溢れているのでは、という思いがどこからともなく流れ込んでくる
私のジャッジがこの世には完全不要なものだと気づいた時、ようやく私の人生が光りを放ち始めた映像が蘇る
「許せない私の心」を許して受け入れてみようかな
トルコ映画を観ました
Kedi というタイトルはトルコ語で猫
イスタンブールの町で生きるノラ猫達のドキュメンタリー映画です
トルコでは、
犬は人間を神と信じるが、猫はそう信じていない。猫は神の存在を感じ取る。
と言われているそうです。
ノラ猫達に愛情を注ぐ町の人達の人生とノラ猫達の日常が、とても暖かい目線で撮影されています
下町の風景が次々と近代都市化していくイスタンブール。
ノラ猫達の居場所がなくなっていくと心配する声が上がっているそうです。
でも、ノラ猫達はそんな変化にも気を取られることなく、ただひたすら「自分のやりたい生き方」で生きて行くんでしょうね
「揺らぐことのない生き様」をノラ猫に見せてもらったような映画でした
もう一度観ちゃおっかな

