こんにちは
バスが停留所に止まると、車体が歩道側に傾き、歩道と乗車口の高低差を最小限にします
広い乗り口の下には車椅子が渡れる専用スロープが取り付けてあり、ドライバーがそれを引っ張り出し、車椅子の人達はそのスロープを渡ってバスに乗り込む
車内入り口付近には車椅子2台を受け入れることができる広いスペースが設えてあります









今日は猛烈な風が吹いている晴天のシドニーです











私は、こちらでは移動するのに主にバスを使います

街の近くに住んでいることもあり、交通の便が良く、どこに行くにも便利ですね
ここシドニーでは車椅子でバスに乗ってくる障害者の人達に結構出会います
車椅子でも、公共の交通機関を使ってお出かけしたり仕事に行ったりできる環境ってすごく良いなって思います
でも、私が生まれ育った福岡市のバスに車椅子の人達が乗っているのをほとんど見たことがないんですよ
思い出してみれば、福岡市のバスって、乗車口が車椅子が乗り込みにくい造りになってる気がします
実際、どうやって車椅子の人達を乗せるのか私には分かりません
バスの中は、特定の場所の座席を倒して車椅子を受け入れるスペースはありますがね
正直なところ私は福岡に住んでいる時、車椅子の人達のことをほとんど意識していなかったんです
でも、オーストラリアに移住して、街でよく車椅子の人達を見かけるようになり、たまに福岡に帰った時に疑問が湧くようになりましたね

これって本当に車椅子の人達の立場に立って設えられているのか

現在の福岡市のバス事情はあまり分かりませんが。
ここオーストラリアのバスはほとんどが車椅子やベビーカーを受け入れることが容易なデザインになってます


バスが停留所に止まると、車体が歩道側に傾き、歩道と乗車口の高低差を最小限にします
広い乗り口の下には車椅子が渡れる専用スロープが取り付けてあり、ドライバーがそれを引っ張り出し、車椅子の人達はそのスロープを渡ってバスに乗り込む
車内入り口付近には車椅子2台を受け入れることができる広いスペースが設えてありますバスの乗り降りが容易であれば車椅子の人達の利用者も増えると思います

彼らにとっては外出にはその他にも沢山のバリアがあるのかもしれませんが、そのバリアが軽減されれば、彼らももっとイベントに行ったりと外出を楽しんだり、それによって色んな人との出会いや交流も増えて、社会が変わるのではないかと思います

身体障害者の人達を、こちらでは主に
The Disabled 





と呼んでいます
私は、ど〜もこの言葉に違和感があるんです

DisとAble
って、なんだか「何にもできないんだよ」って感じに私には響くんです
Able (可能)をDisで否定してますもんね
体が動かない、車椅子に乗っている、知能に遅れがある、などなどが障害者として扱われますが、そんな彼らを障害者と見る目が彼らの障害の部分だけを余計に浮き立たせてる気がしたりします
可能性をDisるって事では、障害者でも健常者でも変わらないのではないですかね
いくら体が自由に動いても、知能が平均的でも、自分の可能性を信じる事ができずに、自分の人生や周りの人間に対して不平不満を口にするだけ
「好きなこと、やりたいことがわからない」って言いながら、何もしようとせずにただ不安な毎日をやり過ごす
自分で自分の可能性を否定する
これが私独自のDisabled の定義です
体が自由に動こうが、知能が誰かが定めた平均値に達していようがいまいがそんなこと関係ないんです
どんな人にも平等に与えられているのが可能性

自分の可能性の存在を尊重して「好き!楽しい!」って感じることを没頭してやってみる





すると、その自分の可能性に光を当てて現実化するには周りの人達の手助けが必要なんだって気づくんです
私達はお互い協力して助け合いながら、個々の可能性を最大限に引き出す為に存在しているユニットなんだと思います
実際、「障害者」と括られている人達でも自分の可能性を見いだして、それに没頭している人達は沢山います
健常者も障害者から沢山のことを教えてもらっているんです







この、「健常者」「障害者」って括りを自分の心の中から消し去りたいなって感じますね
みんな、それぞれ違う可能性に満ちている存在
あなたの中に眠っている可能性は、あなたが光を当ててくれるのを待ってますよ
夏が恋しい今日この頃です
