スピリチュアルと一括りにしてしまいましたが、
「私はスピリチュアルなこと、霊的なこと、目に見えない神秘的なことに興味があり、スピリチュアルな話が大好きです」と言っている人にはどこか異様な雰囲気、違和感を感じるのです。
それは、興味を持ったとほぼ同時に、幽界の生物に憑依されているからです。
ほとんどの人(まともな人)は、何か怪しげな、妖気を感じ、遠ざかって行くのですが、「類は友を呼ぶ」という言葉の通り、依存心の強い人、感情に流されやすい人、お金が誰よりも好きな人、褒められることが好きな人は、占いを含めた霊能者(幽界の生物)と波長が合ってしまうのです。
その世界(幽界)に入っては絶対にダメ(お釈迦様は断罪しておられます)なのですが
人間は「自由に生きる」ことが許されており、守護霊さん、守護神さんも頭を抱えるながらも、無理やり止めようとはしません。
落ちるところまで落とさせてそこ(地獄)で猛省させるのですが、この苦しみは半端ではありません。
とんでもなく遠回りになるのです。
地球は今、アセンションを迎え、最高の幸せを手に入れようとしていますが、巷の霊能者は一番最後に回されます。騙された人もそうです。
なぜならば、3次元の一番低い「我欲」「感情=勘定=お金」をまだ追い続けているからです。
我欲を捨てて愛に目覚めてゆくこの時期に真逆のことをやってしまうからです。
人間界でも一番低い意識の世界です。
スピリチュアル、占いとはそんな世界なんです。
五井先生も厳しく説いておられます。
五井先生のご著書『本もの贋物』の中から霊能がいかにいかがわしいか、そして危険であるかを抜粋します。くれぐれもお気をつけください。
1.いかなる悪因縁といえど、消え去るのである、という想いを持ちつづけ、守護の神霊としっかり心を通じて、つまり守護の神霊の加護に感謝をしつづけ、世界平和の祈りという人類愛の祈りをつづけてゆけば、神の光明は永遠無限のものであり、悪因縁は有限のものでありますから、世界平和の祈りのような善念、光明念波で魂が洗われて、いつかは、晴れやかな、明るい生活を迎えることが出来るのです。
これは守護の神霊の存在と、その働きを体験として経験しつづけている私にとっては、はっきりわかっていることなのです。
そういう自分自身を絶え間なく守りつづけていてくださる肝腎かなめの守護神さん、守護霊さんを忘れてしまって、人の心をちょっと見抜く霊能や、自分の周囲の人に霊動を起こさせたり、異言をしゃべらせたりするインドの昔のバラモン行者のような外道者の幻術に迷わされている人をみると、気の毒になってきます。
人間は誰も彼も、神の子なのであり、誰にも彼にも、専属の守護の神霊の守りがあるのに、何を好んで、自己の本体から離れた、外道の道に迷い込んでしまうのか、ちょっと不可解に想えますが、そういう人たちの想いをみますと、自己の心や現在の環境に不平不満の想いが蓄積されている人や、霊能というもの、普通人にない能力というものに、常に憧れている人、絶えず想念の揺れ動いている人が、そういう形で迷いの道に入ってゆくことになっているようです。
2.人格高潔で調和した人が、霊能力を備えている、というようなら、これは実に結構なことなのですが、霊能者には得てして、人格の常人より低劣な、常識外れの人が多いので、余程気をつけて近づかぬと、霊能者には危険性があるのだ、ということを知らねばなりません。
なんにしても人間は、一人一人がすべて神の子であり、神の分生命であることを知らねばなりません。
そして神が愛であることを知らねばなりません。
どんな不幸災難にしても、現在起こったようにみえましょうが、それらはすべて、過去世から今日までのその人の想念所業が集積の現われでありまして、そうした業の集積が現われて消えてゆくことによって、その人の本心が開き、その人の神の子の姿が輝き出すのですから、消えてゆく業を抑えようとして、神詣でをしても、行者詣りをしても、それは根本の考えが誤っているので、どうにもなりません。
一時は行者や霊能者の力で、その不幸や病気の症状を抑えてもらえたようにみえましょうとも、それは一時だけのことで業は消え去ってしまったのではなく、内にこもっただけなので、機をみてまた現われてまいります。
ですから、消えてゆく業を他人の力で抑えようなどとはしないで、ひたすら自己の守護の神霊を心で呼びつづけるのです。
そして守護の神霊の加護によって、自己の本心の光明を表面に導き出してもらうのです。
本心の開発こそ、この世もあの世を通して、最も大事な人間のなすべきことなのです。
3.ところが、人間の肉体生活にふりかかってきている不幸災難があまりに辛過ぎると人間はつい焦ってまいりまして、自分には専属の守護の神霊が存在することを知っている人でも、ふいとそうした存在を忘れてしまって、巷間の行者や霊能者に頼っていってしまうのです。
これは守護の神霊の許可を受けて行なったわけではないのでたとえ一時お陰があったようにみえても、後で必ず、その行者や霊能者の背後霊に負い目を受けて、返礼しなければならなくなります。
それはその行者や霊能者の背後の憑依霊魂の業を背負わされるとか、金銭的に相当の額のものを取られるとか、なんにしても、自己が背負っていた業の一時引受料を、必ず取られるのです。
それが金銭的な時はまだしもよいのですが、憑依霊魂の業を背負わされるなどは、とてもたまりません。
それなら自分がはじめから払わねばならなかった、本来の業因縁を自然に現わして消し去ったほうが余程、自己の霊魂の修行のためになるのです。
ですから、自己の行動は常に心の中で、守護の神霊に相談しながらやってください。・・・・・・・
『本もの 贋物』五井昌久 白光出版






