【「ある日の五井先生」清水 勇 著より】
身代わり
この世に生を享けたものには必ず「消えてゆく姿」があります。魂を磨き霊性を高めるためには、どうしても過去世の遣り残しを今生で果さなければならないからです。
しかし例外として五井先生のような霊覚者には、「消えてゆく姿」は全くなく、あるのは「消してゆく姿」だけでした。昼夜を分かたず世界の業を一身に引き受けてお浄めなさっておられたのです。肉体的な現われとしては腹部の激痛でした。
先生は「包丁で腹を切り裂かれるような痛み」とおっしゃっておられました。
また間断なく出る痰は時には気管を塞ぐことがありますが、その時は苦しみをじっと耐えて、霊的な呼吸をすると痰が切れるとのことでした。あえて医者が病名をつけたとしたら「気管支喘息(ぜんそく)」でしょうか。
したがって睡眠もまとめて一時間、二時間おとりになることはなく、五分刻み、十分刻みとおっしゃっておりました。まさに十字架上のイエス・キリストです。
「イエスは一昼夜だったけれど、わたしは十年間だよ」と。
五井先生の状態を見かねた故斉藤長老の発意で、全講師(約二百名)が一つになって、たとえ一日でも二日でも五井先生の身代わりにさせていただけたら、ということを進言しました。
ところが五井先生のご返事は、「二、三分と持たないで全員が悶絶してしまう」とのことでした。世界の業の凄さ、それをお受けになっている五井先生の器の偉大さをあらためて知らされたことでした。
「夜通し痛み続け、明け方になってちょっと楽になる。その時みんなだったら、あー今日もこれから痛みが襲ってくるんだろうな、嫌だなあと思うだろうけれど、わたしは決してそうは思わないよ。
昨日は昨日で終わった。今日こうして新しい一日を与えて下さった。わたしの身体を使って世界を浄めて下さる神様ありがとうございます。これがわたしの光明思想だよ」
というお言葉をお聞きしたことがありました。
ある時、先生が次のようにおっしゃいました。
「今出た痰は白人がインディアンを虐殺した時の業が痰という形で消されていって、次に出た痰はローマの兵士がキリスト教徒を迫害した時の業が消されていったんだよ。
わたしの痰には一つ一つ物語があるんだよ。いずれこの物語を一冊の本にしようと思ってね。題名は『歎異抄』*(たんにしょう)ね」
五井先生の冗談にはまいりました。
*歎異抄 浄土真宗の開祖、親鸞の語録。