妙好人(みょうこうにん)と言われる人たちがいるんです。
妙好人というのは浄土門から出ているんですね。 南無阿弥陀仏から出ているんです。
妙好人というのは、白蓮華のように、きれいに浄まった人という意味なんです。
悟った人です。
それで学問なんかない、知識もないんですが、行ないが素晴らしくいい。
そういう人を妙好人というのです。
自力の聖道門や禅宗なんかからは出ていない。
「みんな南無阿弥陀仏、このじじいのような悪いものを」 というところから出ているんです。
因幡(いなば)の源左さんで、お百姓なんですけれど、ものすごくいい人なんです。
けれど自分は一番の悪人だと思っている。 一番どん底の悪い人だと思っている。
ちっとも悪くないのですよ。
自分が一番悪い人だと思って、何が来ても、どんなことが来ても有り難いと思っている。
子どもが長男、次男とつづけて二人、狂ったようになって死んじゃうのです。
お寺の和尚さんが 「いくら阿弥陀様の慈悲だといっても、こんなに悪いことが重なると慈悲と感じられないだろうね」 と言うと 「いやそんなことはありません。阿弥陀様のご慈悲でございます」 素直に本当にそう思っている。
それで 「この苦しみから逃れて、早く阿弥陀様のところへ行かれた、有り難いことだ」
というような考え方をするんですよ。
火事で焼けちゃうことがあるんです。 でもそれがそのまま有り難い、前生の業がこんな苦しみぐらいで消えていって有り難い・・・・すべてそういう式なの。
それには泣かされますよ。すべてが有り難い。
いいことをして有り難いのは誰だって有り難いわね。
お金が入りました有り難い、出世しました有り難い、というのは有り難いんだけれども、ふつうの場合でいえば有り難くもなんともないことを、スパッと有り難い、と思えるんです。
とても素晴らしく、見ていると涙ぐましくなっちゃうんです。
牢獄に入っている犯罪者たちをみると「私のような悪い者が入らないで、代わりにあの人たちが入ってくれ、こういうことをすれば、こういうことになる、という見せしめをしてくださって、本当にあの人たちは私の身代りになっているんだ、有り難い」という調子なんですよ。
そういうのを聞くと、ああいい人がいるもんだなァ、人間はいいなァと思います。
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「想いが世界を創っている」 五井昌久 白光出版
感想・・・今、目の前に現われていることは、過去、過去世の幻影であり実在するものではない、「捉われなければ、つかまなければ消え去ってゆくのだ」といくら自分に言い聞かせても、やはり客観視は難しく落ち込んでしまうのです。
そんなとき、私は上記の源左さんのお話を何度も何度も読み返すのです。
「私より苦労をした人が感謝の気持ちで生きておられる、なんて素晴らしいんだろう」
・・・実話ほど心に響くものはありません。
肉体人間は弱い生きものです。
仏さまのような人(源左さん)に、頼って生きて行っていいのだと思います。