もう親子関係で悩むことはやめよう‼️
——あなたはこの世の創造者
人は自分の想念の世界に住んでいる
地球人類を構成しているのはあなた方一人一人なのだ。
この世に世界というものが存在しているのは、あなた自身のためだ。
実際この世界は、あなたがそれを創り出しているのだ。
一般に、あらゆる人々は自分のまわりにあらゆる世界を創り出す。
その世界はその人の想い方次第で創られてゆく。
平和な世界を創り出してゆくか、また豊かな世界や調和の世界や孤独な世界を創り出してゆくかは、あなたの想い方一つで決まるのである。
家族がお互い一つ屋根の下に暮らしていても、家族それぞれ皆異なる世界に住んでいる。
確かに同じ建物、空間を共有し、同じ物を食べ、血で結ばれていてさえも、あなたたち家族は皆決して同じ世界には住んでいない。
みんな別々の世界に居を構えているのである。
なぜならば家族皆、同じ思考を持っているとは限らないからである。
家族はお互い、同じ濃い血の絆で固く結ばれているので、一つの世界に住しているように思われるであろうが、否、決してそんなことはない。
家族であっても全く異なる世界に住しているものである。
自分の子供が天国に住み、その両親が地上の世界に住んでいるかもしれない。
ところがあなたたちは、実際に自分たちが同じ世界に住んでいると思っている。
たとえ夫や妻であろうと、親や子供であろうと、想念が違っているのに、どうして同じ世界に住むことが出来よう。
人は自分の想念によって創っている世界に住み、その世界から離れることは出来ないのである。
またあなたの想いで創りあげた世界に、誰も住むことは出来ない。
それはあなたの世界だからだ。
あなた一人の想いで築きあげてきた世界なのである。
そして自分一人の世界に住みつくと、あなたが自分のまわりに世界を創る。
親が子に(夫は妻に)自分の生き方や思想や体験を語り聞かせることは出来る。
だがそれまでのことである。
決して親の思う通りに子を導くことは出来ないし、また子供のほうは、果してその親が導く通りに歩んでゆくかというと、それは否である。
子供は子供の世界を築いてゆくからである。
子供の築いた世界が地獄の様相をきたすような世界であるため、子供を変えたいと思うならば、まず子供の想念を変えるように導いてゆかねばならない。
そういう世界をこの世に創り出してゆく根源は、その子の想念だからである。
人は皆、自分の想念の世界に住んでいる。
自分の住んでいる世界があまりにも不幸で悲惨で汚れた世界である場合、、まず自分の住んでいる周囲の世界を変えなければならない、と誰しもが思うことであるが、それは間違いである。
誰も他を変えることは出来ないし、変えられるわけもない。
たとえ親が子に対しても、夫が妻に対しても無理なことである。
自分自身が本当に今自分の住んでいる世界から抜け出したいと思うならば、まず自分の想念を変えてゆくことから始めてゆかなければならないのである。
自分自身が変わること以外に、何の方法も見出せないのである。
故に、たとえ血のつながった愛すべき親兄弟姉妹がどんなに不幸であろうと、それらの人々に関しての責任はいっさい他にない。
すべては本人の責任である。
本人の考え方であり、本人の願いであり、本人の想いだからである。
自分の今住んでいる世界が嫌だからといって、家から逃れても、世間から逃れても、自分の世界はいつも自分についてまわる。
どこか別の世界へと逃げおおせたとしても、一番肝心のこの自分自身から逃げ出すことは決して出来ない。
どうやって逃げられよう。
たとえどこかに逃れても、そこでまた同じ世界を、全く同じ自分の想念の世界を創ることになるのである。
何故ならば、自分自身が以前と変わっておらず、同じままだからである。
自分の想いが消えない限り、人は自分の世界を離れることは出来ないのである。
故にどうしても変えたいと切に望むならば、自分の思考や想念を変えなければならない。
変えさえすれば自分の世界はたちまち変わってしまう、まったく違った別の世界が自分の目の前に現われてくる。
あなたがあなたの想念によって創り出す世界とは、自分が真実であれば真実の世界になる。
自分が非実在の欲望の中に住んでいれば、あなたはみせかけの世界を創り出す。
どんなものにせよ、自分がそれであるもの、それがその人の世界なのだ。
だからこの世の中には、人の数と同じだけの世界が存在している。
何故なら、誰もが自分だけの世界に住んでおり、自分だけの世界をまわりに創り出しているからである。
それはその人の想いの投影、その人の想いの創作になる世界である。
たとえこの世を離れても、その世界を離れることは出来ない。
どこに行こうとも、人は再び同じ世界を創り出すことになる。
何故ならばその世界は、絶えず自分の想念から生まれてきているものだからである。
子供の運命は子供の責任である
ここで、再び話を親子関係にもどしてみたいと思う。昨今、実に親子間のトラブルが絶えない。
特に自分の血を分けた愛しい子が、自分の思った通りに順調に育たない場合が多く、悩みが絶えない。
健康面でのトラブル、精神面でのトラブル。
親は自分のことならいざしらず、実の子の不幸をみていて血を吐く想いである。
ほとんど多くの親は、我が子がこうしたあらゆる問題を抱えている時、それをすべて親の責任と痛切に感じ、自分自身のいたらなさを責め裁く。
たとえ自分を責めて責めて責めまくったにせよ、それでその子がものの見事に変わるなら大変に結構なことであるが、そんなことは、ほとんどと言っていいほどあり得ない。
親が我が子の不幸や災難に対して、あくまでも自分の責任として受けとり、自分を責めつづけ、その結果我が子が治るなら、どんな親もわが身を徹底的に責め裁くがよい。
だがいくら自分を責めつづけてみても、子が治る筈は決してないのである。
子供本人の抱えている、その苦しみや不幸や悲惨さは、決して親のせいでもなければ、親の至らなさでも親の責任でもない。
その子自身の本人の望みであり、まさしくその子の持っている想念行為の顕われなのである。
それがたとえ生後何ヶ月の子、一歳二歳十歳の幼子であってもである。
その真理がわからずして、いたずらに歎き悲しみ、人生のすべてを費やしてその子のために捧げ尽くし、暗く惨めな不幸な一生を終える親がこの世の中にどれだけいることか。
絶対なる真理は、この肉体界の世界を通過する時、どうしても歪んだものになっていってしまう。
それはあたかも、丁度まっすぐな棒を水の中に入れるようなものである。
棒はまっすぐなのに、突然水という媒体を通すと曲がってみえる。
水という媒体が何かをしてしまう、まっすぐな棒を屈折させてしまうのである。
頭の中では、棒はまっすぐなままだとよく知っているのに、実際の目にはそれが曲がってみえてしまうのである。
真理もまったくこれと同じことで、真理は真理で厳然としていてしかるべきものなのに、肉体という媒体、世間という媒体、常識という媒体を通過すると屈折される。
真理が想念という媒体を通り抜けてしまうと、それは何でも歪んだものになってしまう、故意に曲げられてしまう。
真理が真理にあらずである。
そのように、子供に関する限り、世間の常識でいえば、子供ことはすべて親の責任と義務にあると思い込まされている。
そして子供に関する一切合切、そのすべてを親に負い被せ過ぎてしまっているのである。
確かに親は、赤ちゃんや、幼い子供に関しては充分に保護し、養い育てる義務はあるのであるが、子供がどんどん成長して自分の意見を持ちはじめ、自主的になりはじめる頃は、全面的に親の責任とはいえないのである。
子供が持って生まれた天性の性格や才能、因縁、そして想念によるものの顕われだからである。
たとえ親といえど、子供の心の中にまで土足で入り、踏みにじることが許される筈もなく、また子供の心や想念を変えることが出来るなどとは、思い上がりも甚だしい。
どんな親であれ、そんな権利は持ち合わせてはいない。
子供はすべて、子供の自由意思によって、その子の人生が運命づけられてゆくものだからである。
親の役目は導き手にすぎない。真理への道、神への道へと、方向づけしてあげさえすればそれでよい。
折角方向づけしてあげても、その子供がそれに反発して従わなかったり、逆の道を行くようだったら、それはその子の生き方であるから、それはそれでよいのである。
今生には未だその子が果たさなければならない、修行しなければならない険しい道が敷かれているに違いないのである。
その子が今生において、無事その子の果たすべき因縁を超えられた場合、来生は素晴らしい、輝かしい世界が展開されてゆくものだからである。
それが一つの魂の成長なのである。
段階なのである。
今生の生き方だけを垣間見て、ああでもないこうでもないと言うことは、甚だおこがましいことである。
子供の苦しみをみていて、あまりにも悲惨さがつづくと、つい子供の苦しみを少しでも親が引き受けてあげたいとか、自分と代わってあげたいとか想うのは、心情的には実によくわかることなのであるが、真実からいえば自分の感情移入も甚だしい。
子供の天命のまっとうを祈ろう
本当に子供を愛し、子供のことを想うならば、今その子が通り抜けなければならない状況を、無事通りこせるよう祈ってあげればよいのである。
それ以外に方法は何も無い。
またたとえ、親の願いが聞き遂げられたとして、その子の苦しみや負担を分かち合えたにせよ、いずれその子には同じ運命の苦しみや、同じ悲惨さが待ち受けているのである。
決して苦しみから抜け出したのではない、ただ後まわしになったに過ぎないのである。
その子が今生において果たすべき天命は、必ず果し終えなければ、何生繰り返しても同じ世界が繰り広げられるのである。
どうぞ世の親たちよ、心を鬼にしてまでも厳しく対処すべし。
その子の担った運命は、その子のみにしか果たし終えないものである。
決して代わりが許されるべきものでもない。
その子の魂の磨きである。
立派になるためのプロセスである。
自由自在にして、真理の道を歩んでゆくための今生の道でもあるのである。
それをよく判っていただきたいのである。
厳しいようでも、子供の苦しみは、その子の問題である。
親であるあなたの問題ではない。
何故あなたがかき乱されなくてはならない。
何故あなたが苦しまなければならない。
何故あなたが責任を感じなければならない。
何故あなたが負い目を負わなければならない。
何故あなたが、あなた自身の人生までも狂わしてしまうことがあろうか。
ましてや、その子を取り巻く兄弟姉妹の運命までも。
その子の周りにある物は、すべてその子のせいでそこにある。
その子がその子自身によって、果さなければならないことなのだ。
だからこそ、その子がそれを引き寄せているのだ。
その子の周りにある苦しみや不幸や悲惨さをあなたが感じているとしたら、それは間違っている。
それを引き寄せているのはすべてその子なのだ。
あなたではない。
あなたがそれに対して苦しむのは止めなさい。
腹を立て憤るのは止めなさい、そしてその子の抱えている悲惨さと闘うのも止めなさい。
そんなことをしても無駄だ、その子が引き寄せて招いているのだから。
その子の周りに起こっていることは、何でもその子の想いに源(みなもと)がある。
その子の想いが常にその子の不幸の原因である。
あなたがそれに対して責任を感ずることはない。
あなたが責任を強く感ずるとしたら、それはあなたが間違っている。
あなた自身の存在が、その子の修行にとってかえって負担になってしまっているのである。
その子は今生において果さなければならない因縁を持って、生まれ合わせているのである。
本当にその子のことを思っているならば、あなたはただ黙って、その子のために祈ってあげることだ、ただ祈ってあげさえすればよい。
一刻も早く真理に目覚めるよう、その子のために祈ってあげさせすればよいのである。
縁あって、親と子として今生に生まれ合わせてきたのである。
その縁故に親が心から愛する子に対して、その子の天命がまっとうされんことを祈ってあげる時、その子にその親の心、真理が通じない筈はないのである。
やがて子は目覚め、その子自身の持つ想念が変わった時、もはやその子の世界は苦しみの世界から一変することであろう。
子供への執着を断とう
親は子供への執着を断つことだ。執着故に苦しみ傷つき病むのだ。
執着の想いほど子供にとって大いなる迷惑はない。
執着は留まることを知らない。
ただ物事をしてあるがままにあらしめなさい、そうすれば物事のほうから自然に去ってゆく。
物事を自分の力で引きつけてはならない。
物事の自然と己れの自然とに従うがよい。
無知からくる執着こそ人を惑わすものだ。
人は光明にも執着し得るし、神にも執着する。愛にも執着するし、祈りにも執着する。
過去の出来事にも執着すれば、未来にもまた執着する。
物質に執着すれば、地位や権力にも執着する。
夫や妻や子供に執着すると思えば、土地や財産、富にまで執着する。
また憎しみにも執着し喜びにも執着する。
ひとたび何かに執着すれば留まることを知らない。
どんなものにも執着せず、自由でなければならない。
何事も執着すればすべてが止まってしまう。
エネルギーが一ヵ所に滞り、自由自在とはほど遠くなる。
人は常に何ものにも把われず、自由自在であるべきだ。
執着は自分に足かせをはめているようなもの、自分で自分の首を絞めているようなもの。
何事にも執着しないでいられたら大したものである。
ましてやそれが愛するいとしい子にさえも行われ得たなら、あなたはもうすでにあなたの苦しみから解き放たれている。
心は自由だ、明るく陽気だ。
たとえ現実がどんな悲惨な状況をみせていようとも、もはやあなたの心の中には苦しみは存在しない。
何ものにも把われない自由な心があるからだ。
あなたが周りにある、そして起こる、あらゆるものに執着しなくなれば、あなたはいかなるものをも引き寄せることはない。
そうなると、あなたの執着を身に受けて自由を失っていた子供が、突如として溌剌と生き生きと輝いてくる。
多くの人々、実に多くの人々が、不幸に対して深い執着を持っている。
なぜなら、ある不幸からやっと抜け出られたと思ったら、また次にはもう新しい何か別の不幸を持ってくるからである。
私にいわせれば、まるで好きこのんで次の不幸をつかもうとしているとしか思えないのである。
逆に自分の不幸を売りものに、内心大いに楽しんでいるかのように思えてならないのである。
彼らにとっては、不幸こそが最大の宝物なのであろう。
人は新しい不幸を次から次へと創りつづけることによって、生き甲斐を求めているのかもしれない。
西園寺昌美



