歳時記 4月28日

 

穀雨/霜止出苗(こくう/しもやみてなえいずる) 春雨が降って田畑を潤す。霜も降りなくなる。苗がすくすくと育ちはじめる。1253年のこの日、日蓮は己の生命と宇宙の真理が一つとなるに至り、世界を貫いて咆哮した。

 

 

 

歳時記余話

 

1257年(正嘉元年)、鎌倉時代、鎌倉でマグニチュード7.5といわれる巨大地震が勃発した。余震も長期間続いた。鎌倉一帯の寺社や武家屋敷の多くが倒壊し、地割れ、水の噴出、液状化、暴風雨、周辺の山崩れが多発した。さらにこれらが凶作と疫病を誘発し、翌1258年から「正嘉の飢饉」といわれる全国規模の大飢饉となった。『吾妻鏡』には死者や病人が続出し、路辺には遺体が放置されていたことが記されている。母の亡骸を抱き、飢えに震える子らの瞳に映る救いはどこにもなかった。(『日蓮聖人遺文』、『吾妻鏡』)

 

個人の内なる魂に、国家も時空も超越した『正法』を据えぬ限り、外界である社会や国家が平安になることはない。ところが魂に『正法』を打ち込むべき宗教の多くが腐敗していて役に立たない。日蓮はこのことを喝破し、既存の宗教を無視して、法華経の題目「南無妙法蓮華経」を唱えることで悟りが開けると断言した。自ら鎌倉の街頭に立って民衆に問いかけるとともに、鎌倉幕府の最高権力者・北条時頼にその趣旨の『立正安国論』を建白した。

 

しかし日蓮が腐敗していると決めつけた宗教勢力と日蓮との間に激しい対立が生じる。鎌倉幕府はその腐敗した宗教勢力の影響下にある。幕府は日蓮を捕えて伊豆へ流罪にし、さらに斬首を決定する(龍ノ口の法難)。しかし1271年9月12日、幕府の刑場龍ノ口(藤沢市)において日蓮を斬首する瞬間、空に光り物が現れ、執行人は恐れおののき、震え上がってついに斬首できなかったと伝わる。日蓮はこののち佐渡へ流罪にされる。(『平左衛門尉頼綱奉書』、『種種御振舞御書』)

 

これほどに、日蓮は一歩も退かなかった。絶体絶命の瞬間においても泰然自若としていた。彼は真理と一体化することで、死そのものを無効化したのだ。ただ人々の心から『正法』が失われぬようにと念じ続けた。「国を安んずる」とは、武力や法による統治ではなく、一人ひとりが自らの良心に目覚め、生きる勇気を持つことと同義であった。(『開目抄』)

 

 

 

哲学の核心

 

社会の安寧はそこに住む一人ひとりの魂の覚醒からはじまる。混乱、貧困、不幸の原因を政治や社会などの外界に求めても、それは外界に責任を転ずるだけで、何も解決しない。「立正安国」とは、国を救うことではない。正法をよりどころとして己の内面を正すことである。その結果として国家の平安と民衆の安穏が実現するということだ。

日蓮は率先して自身の内に正法を打ち立てた。いま私たちが直面しているのは、私たちも同じ一歩を踏み出す瞬間に対してである。立正安国とは己の弱さとの戦いである。世界はその瞬間によってかたちづくられる。(1274年、佐渡、日蓮『観心本尊抄』)

 

 

 

追記

内村鑑三も「政治家の迷走は、国民の意思の反映に過ぎない。国家の暴走を防ぐ唯一の手段は、国民一人ひとりが国家より上位にある『普遍的真理』を内面に持つことである」と述べた。キリスト教の覚者(内村鑑三)と仏教の覚者(日蓮)が、日本人の至誠において火花を散らしながらも合流し一致した瞬間である。(内村鑑三『地人論』)

 

 

 

人物の概要

日蓮(にちれん)。鎌倉時代の仏教僧、日蓮宗の宗祖( 1222年2月16日〜1282年11月21日)。 1253年4月28日、安房国旭が森(千葉県)にて覚醒。「法華経」を根本とし、個人の悟りと社会の安寧救済を一致させる「立正安国」の哲学を貫いた。 主著:『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』