(歌川広重「京都名所の内淀川」)

 

 

 

歳時記

4月24日、穀雨/葭始生(こくう/あしはじめてしょうず) 春雨が穀物の成長を促し、水辺で葦(あし)も芽を吹き始める。この時期の雨は「雨生百穀(うりゅうひゃっこく)」と呼ばれ、田植えや種まきの準備が始まる。

 

 

 

歳時記余話

 

1)新宿のバーで聴いた「神話のリズム」

熱田貴(あつたたかし)は、日本ソムリエ協会の前会長であるが、今も「熱田会長」と呼ばれている。日本を代表するソムリエとして国際的な評価が確定しているから、ということもあるが、それよりも、おおらかなユーモア、何者にも屈せず、ひるまない、大きな心が、「会長」というイメージにぴったりなのだ。熱田会長と新宿のバーで日本の文化論に花を咲かせていたとき、彼の珠玉の言葉を聞いた。「小学生の頃、広沢虎造の浪曲をみんなで合唱しながら登校したものです。浪曲は唸る(うなる)って言うんですよね。小学生がごく自然に唸り(うなり)ながら登校していたんです」。

 

熱田会長は現在87歳なので、小学生の頃というのは終戦直後、日本人はGHQの支配下で教科書に墨を塗り、自らの真実の歴史を否定し、誇りを剥ぎ取られていった虚無の時代である。しかし子供たちの喉(のど)と耳には、教科書の文字よりもはるかに力強い「日本人の魂のリズム」が鳴り響いていたのだ。理屈で覚えた歴史は忘れるが、歌(浪曲)として身体に染み込んだリズムは忘れない。小林秀雄は「歴史は、それを信ずる者だけにその姿を現す」と言ったが、合唱して唸る子供たちの身体には、確かに日本の歴史がその姿を表していた。しかもその歴史は、墨では消せない「神話のリズム」に裏打ちされていた。

 

後日、熱田会長に「小学生のときにみんなで唸った広沢虎造の浪花節の題目は何でしたか?」とラインで聞いたところ、熱田会長から「旅行けば~駿河の国に茶の薫り~。『石松三十石船道中』、『秋葉の仇討ち』、『吉良の仁吉』も好きでした」という返信が来た。

 

 

 

2)石松三十石船道中 「家族の情」のリアリズム

旅行けば~駿河の国に茶の薫り~。

東海道、駿河の国、清水港で売り出し中のやくざの親分、清水次郎長(しみずのじろちょう)。子分の森の石松(もりのいしまつ)は、親分の代理で四国の金毘羅山に参詣した帰り道。大阪でちょっと遊んで、これから京都経由で東海道を清水港(現静岡市)に帰ろうというところ。

 

大阪から京都伏見まで淀川を上る渡し船は三十石と云うからかなり大きい船だ。これに森の石松兄さんが乗り込んで、余計なお代を払って胴の間のところ畳一畳ばかりを借り切った。時は江戸時代の終わり頃、当時の日本人はお互いの心が通じる一つの大家族のようだった。船が川の中半へ出るころにはもう乗合い衆みんなの話が弾んでいる。利口が馬鹿になって大きな声で喋る。お国自慢、名物自慢、仕舞いには豪傑の話が出る。武蔵坊弁慶と野見宿禰が相撲を取ったらどっちが強いか。やくざ者に詳しい男がいい気持ちで口を開いた、「東海道にはいい親分が揃っているが、街道一図抜けた者がいない。五年経ったら草津追分の見受山の鎌太郎が一番になるだろうよ。」

 

すると石松の脇で寝ていた男が上体を起こした。

脇の男「街道一の親分はいま立派にあるじゃねえか。清水港の清水次郎長、これが街道一の親分よ。」

横で聞いていた石松、自分の親分の名前が出てきて、しかも街道一と持ち上げられてすっかり嬉しくなった。

脇の男「けど次郎長ばかりが偉いんじゃない。物事出世をするには 話し相手の番頭役が肝心だ。太閤秀吉公に竹中半兵衛という人あり。徳川家康公に南光坊天海あり。ぐっと下がるが紀州の蜜柑で売り出したあの紀伊国屋文左衛門も仙台の浪人だった林長五郎という人が番頭になったから出世した。次郎長とてもその通り。話し相手の子分衆が偉いのよ。」

石松「お兄さん、江戸っ子かい?」

脇の男「神田の生まれよ。」

石松「まあ、寿司でも食いねえ。ところで次郎長の子分の中で一番強えのは誰だか知ってるかい?」

脇の男「こりゃどうも。清水一家で一番強いのは元尾張藩の槍組の小頭、槍を取っては山本流の使い手、山本政五郎さ。体が大きいから大政ってんだ。これが一番よ。」

石松「まあそりゃ一番は大政だよな。」

脇の男「その次が居合抜きの小政。」

石松「三番は誰でい。」

脇の男「千住の先の草加の在、大瀬村の村役人の倅、大瀬半五郎だ。」

石松「四番は誰でえ。」

脇の男「遠州秋葉の三尺坊の火祭りでお父つぁんの敵討ちをした増川仙右衛門だな。五番は法印大五郎、六番は追分三五郎、七番は尾張の大野の鶴吉、八番は尾張の桶屋の吉五郎、九番は三保の松五郎、十番は問屋場の大熊、十一番は鳥羽熊、十二番は豚松、十三番は伊達の五郎、十四番は石屋の重吉、十五番はお相撲綱、十六番は滑栗(なめぐり)初五郎。」

石松「うるせいや。下足の札貰ってんじゃねェや。次郎長の子分で肝心なのを一人忘れてやしませんかってんだ。」

脇の男「そのほかに強い、お~、一人あった。奇妙院常五郎。」

石松「もっと強いのがあんでしょ!」

脇の男「清水一家で一番強いのは、どう考えたって、誰に言わしたって、清水一家で一番強いてぇば、大政に小政、大瀬半五郎、遠州森のい・・あれ? 森の石、だぁ~、すまねェ。清水一家で一番強えのを忘れていたよ。遠州の森の石松ってんだィ。これが一番強えや。」

石松「おお!そうかい! 客人、もっと寿司を食いねえ。その森の石松ってやつぁそんなに強えのかい?」

脇の男「こりゃ強え。大政だって小政だって敵わねえ。清水一家でずぬけて強えね。」

石松「客人!酒も飲みねえ。もっとこっちへ寄んねえ。」

脇の男「小さな娘がね、子守歌に歌ってますよ。」

石松「えっ! 小娘まで森の石松を知っているのかい!」

脇の男「お茶の香りの東海道~、清水一家の名物男~。」

石松「いよっ! お兄さん、江戸っ子だってね!」

脇の男「神田の生まれよ。」

石松「歌の続きはあるのかい?」

脇の男「遠州森の石松は~、素面(しらふ)の時は良いけれど~、お酒飲んだら乱暴者よ、喧嘩早いが玉に傷、馬鹿は死ななきゃ治らない~。」

石松「えっ! 畜生、がっかりさせやがる、この野郎。」

脇の男「石松ってやつは本当に馬鹿だからね。」

 

 

 

3)私たちは何もしなくても一つの家族である。

「石松三十石船道中」には『生きた日本』が鳴り響いている。そこには西欧的な個人の権利も、損得勘定も存在しない。それらを超えた「情」がある。親分を褒められれば己のこととして舞い上がる石松の純真。石松の「馬鹿は死ななきゃ治らない」というフレーズを日本人が愛したのは、それが計算高い「利口」よりも尊い、純粋な魂の代名詞だったからだ。日本人にはお互い家族同様の一体感の喜びがあった。「一心同体の家族」が生きていた。だから勇敢であった。武将たちは一族郎党を守るために生命をかけた。守れなければ共に死ぬために切腹して果てた。その精神を受け継いだかつての日本陸軍も家族である戦友を守るためにわが身を盾とした。商家も主人夫婦は丁稚奉公の小僧たちと寝食を共にして家族として育てた。その丁稚小僧から身を起こした松下幸之助はどんな恐慌の苦境でも社員を一人も解雇しないという家族的な日本型経営をリードした。日本全体が一つの家族であった。

 

それは清水次郎長や石松のようなやくざ者の世界でさえも同じだった。「清水一家」という「家族」である。だから「親分子分」「兄弟分」という契りを結ぶ。現代の西洋化されて血も涙もなくなったヤクザとは違う。次郎長は山岡鉄舟にほれ込んでお国のためにひと肌も二肌も脱ぐのだ。新門辰五郎も徳川慶喜にほれ込んで半生を捧げたのだ。そこにあるのは、将軍からやくざに至るまで日本人は一つの家族であり、自分も「一心同体の家族のために生きる」「家族を守るために死ぬ」という至純の精神である。石松の可笑しみと悲しみは、そのまま日本人の「魂の純粋さ」であり、理屈を超えた生命の躍動である。その家族の絆に同じく家族である日本人全体が心から共感し、笑い、泣いたのだ。これらはGHQがどれほど墨を塗ろうと、マスコミがプロパガンダしようと、消し去ることのできない、日本人の深層に流れる『神話のリズム』である。渡部昇一が言うように、日本人が外来の思想を驚異的な速さで吸収しながらも、決して自らの核を失わなかったのは、こうした「情」に裏打ちされた強靭な自己同一性(アイデンティティ)があったからである。

 

松下幸之助ら戦前に育った経営者たちが次々に亡くなる1980年代以降、日本の家族は完全に崩壊したかに見える。それはGHQの流れをくむ自民党やマスコミに潜む戦後利得者による「日本の真実の歴史の全否定」のプロパガンダが成功したということだ。しかしそう簡単には問屋が卸さない。数万年にわたって培われた「日本人の家族像」は、渡部昇一の言う日本語のリズムが流れる限り、私たちの血の中に待機している。小林秀雄は伝統と故郷は自分自身の血の中にあると言ったが、その伝統と故郷の根源たる家族こそが血の中にあるのだ。 私たちは私たちの血において、理屈を超えて、何もしなくても、いまもなお一つの家族である。その家族の歴史は「それを信ずる者に姿を現す」べく、私たちの中で待機している。

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

人物の概略

 

熱田貴(あつたたかし)

1938年7月7日生まれ。日本を代表するソムリエとして国際的に評価されている。シュバリエ・ド・タストヴァン賞など世界のソムリエ大賞を軒並み受賞。80歳代に入っても世界最大のワインコンテスト「Decanter World Wine Awards」金賞などを受賞し続けている巨星。日本ソムリエ協会会長、ボージョレ・ヌーヴォーをプロデュース。北海道で彼のワイナリーに隣接して「仁木ヒルズワイナリーの丘公園」が造営され、銅像が建立されている。

 

 

渡部昇一(わたなべ しょういち)

1930年10月15日 ~ 2017年4月17日 日本の英語学者、評論家。知の巨人と評される。上智大学名誉教授。著書『国民の歴史』などを通じて、自虐史観を廃して「日本人のアイデンティティ」を回復することに尽力し続けた。伝統を「生きた力」と捉え、外来の知を吸収しつつも核を失わない日本精神の強靭さを論理的に構築した。

 

 

小林秀雄(こばやしひでお)

1902年(明治35年)4月11日~1983年(昭和58年)3月1日 文芸批評家、近代批評の確立者。戦前戦後を通じて最大の文学者と評される。明治以降の西洋化と戦後の価値観崩壊の中で、日本人がいかにして自らの「伝統」と「故郷」を掴み直すべきかを解明した。 主著:『様々なる意匠』『無常といふ事』『本居宣長』。