歳時記余話
問い
小さきものは?
歳時記
三月三日、ひな祭り。ひな人形を飾り、子どもたちの愛をはぐくむ日。清少納言が愛でた「小さきもの」への慈しみとひな祭りの祝祭の心は、千年の時を超えて繋がっている。
答え
小さきものはみなうつくし 清少納言
うつくしきもの。瓜に描いた子供の顔。雀の雛がねずみのようにチチと鳴いて、親が来るのを待っている様子。牛飼いが子牛に乳を飲ませているところ。小さいものは、みな可愛らしくてうつくしい。
(うつくしきもの。瓜に書きたる児の顔。雀の子のねず鳴きするに、親の来るらむと待ちたる。牛飼ひの牛の子に乳を飲ませてある。小さきものはみなうつくし。)
実話のリアリティ
993年、清少納言は、一条天皇の中宮(后=きさき)である定子(ていし)に出仕した。清少納言27歳、中宮定子17歳であった。当時、宮廷は定子の父・藤原道隆を中心とする華やかな「中関白家(なかのかんぱくけ)」の文化が花開いていた。中宮定子の住まいは内裏の中にある登華殿(とうかでん)である。(『枕草子』「登華殿の御しつらひは」等)
ある日の雪が深く積もった朝、さすがの登華殿も寒すぎて、普段は開けておく格子(シャッター)も閉め切られ、主君の定子と女房たちは火鉢(炭櫃)を囲んでおしゃべりをしていた。格子を閉めているので、外の雪景色は見えない。(『枕草子』「雪のいと高う降りたるを」)
定子が突然、「少納言よ、香炉峰(こうろほう)の雪はどんなかしら?」と清少納言に問いかけた。これは白楽天の詩「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪はすだれを掲げて観る」を踏まえていて、「有名な白楽天はこう言っているけど、あなたならどう答える?」という問いかけだ。(『白氏文集』巻十六「香炉峰下、新居を卜し…」)
周りの女房たちは、定子が「香炉峰の雪は……」と問いかけた瞬間、「ああ、白楽天の詩を知っているか試されているのね。清少納言は気の利いたセリフを返せるかしら? それとも即興で定子様に喜んで頂ける歌を詠めるかしら?」と、虎視眈々と身構えた。(山口仲美『清少納言 枕草子』「笑いの文学」)
もし清少納言以外の「普通の女房」だったら、「はい、白楽天の詩にございますわね。さぞかし外の雪も白楽天の詩と同じように美しいことでございましょう」などと答えるところらしい。しかしこの答えだと面白くも何ともないので、「はい、ちゃんと白楽天の詩を知ってましたね。お勉強よくできました」と言われて終わってしまう。
そこで、即興で定子を喜ばせる和歌を詠んで返す手が考えられる。たとえば「香炉峰 降り積む雪も いかばかり 君が御前の 白きにしかじ」(白楽天が詠んだ香炉峰に降り積もる雪といってもどれほどのものでしょう。いいえ、定子様の御前に広がる、この汚れなき白さの雪景色にはとうてい及ばないでしょう)と詠む。白楽天の有名な絶景の香炉峰よりも定子の庭の雪景色の方が素晴らしい、と言って主君・定子を持ち上げるのが宮廷女房としての作法である。しかもこれなら雪の白さと、定子の清らかさを重ね合わせることができる。なんと100点満点の回答ではないか。
しかし清少納言は、答えを言う前に無言ですっくと立ち上がり、やおら格子に近づいて、寒いから開けてはいけない格子を侍女たちに開けさせ、さらに御簾(みす)を高く巻き上げた。白楽天の漢詩「簾(すだれ)を掲げて雪を見る」を、その場で実演してみせたのだ。寒いけれど、目の前に真っ白な雪景色がパーッと広がる。山口仲美によると、清少納言の「定子様、私、あなたの考えていることが一瞬で分かりました! ほら、これですよね!」という全力投球すぎる回答だ。周りの女房たちが「この寒いのに、まさか実際に雪景色を見せるなんて。負けたわ。やっぱり定子様のお側にふさわしいのは彼女だわ」と感心する中、中宮定子は思わず「笑はせたまふ(お笑いになった)」ということであった。(『枕草子』御簾を高く上げたれば/山口仲美『清少納言 枕草子』NHK100分de名著ブックス)
『枕草子』原文:香炉峰の雪やおら
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まり侍るに、「少納言よ。香炉峰の雪はいかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思いこそよらざりつれ。なお、この宮の人には、さるべきなめり」と言ふ。(「香炉峰(こうろほう)の雪」の場面 第280段 / 299段 ※伝本により異なる)
現代AI社会への応用
AIは、雀の雛に「愛おしさ」を感じる心、すなわち主体的な感覚(クオリア)を持つことはできない。清少納言は日常で気づかぬ小さな変化見逃さず、そこに愛を見出している。これは効率を優先するAI社会においても人間が果たすべき役割である。技術が自動で判断を下す時代だからこそ、私たちは清少納言のように「小さな存在の声を聴く」感性を磨いていきたいものだ。この人間の感性をAIが支える関係こそが、これからの共創の基本だからだ。(『EU AI Act:基本合意文書』/『AI時代の哲学』)
哲学の核心
清少納言の「うつくし(愛おしい)」という感覚は、小さな生命の健気さに対する深い慈愛から発している。彼女はまた日常の些細な断片に宇宙的な価値を見出し、知的で明快な「をかし(輝き)」という美意識を定義した。ひな祭りは、清少納言のようなまなざしで子どもたちを見守りたい。(清少納言『枕草子』第百四十五段)
人物の概要
清少納言(せいしょうなごん)。平安中期の女流作家、歌人。一条天皇の中宮定子に仕え、随筆『枕草子』を著した。逆境にあっても日本の美を発見する「をかし」の精神を貫いた。 966年頃〜1025年頃 主著:『枕草子』
(次回は3月5日です)
