問い

花の咲く日は遅くとも

 

 

歳時記余話 2月26日

雨水/霞始靆(うすい/かすみはじめてたなびく)。遠く薄雲がかかったようにぼんやりと見え、いつもの景色が幻想的な雰囲気になる頃。 世の中がまだぼんやりとしていて、花がはっきりとは見えずとも、その底流で息づく花の「いのち」の気配が感じられる。

 

 

答え(名言)西行

年ごとに 花の咲く日は遅くとも 心のどけき春は来にけり

毎年、花が咲く日は遅くて待ち遠しいものだが、心には、まだ目に見ぬ花が満開の「のどかな春」がすでに来ている。

 

 

 

実話のリアリティ(特別長編~西行の前半生の情熱)

佐藤義清(さとうのりきよ=西行)は、軍神・藤原秀郷(ひでさと)の9代目の子孫である。かつて平将門が反乱を起こして東国を支配したとき、朝廷は藤原秀郷にその討伐を命じた。秀郷は4千数百の兵力を率いてこれに臨み、一時は3900の兵を失いながらも、残りわずか300をもって最終的に将門を討ち取り、東国全体を平定した。筋金入りの武将である。秀郷の子孫たちは秀郷流と呼ばれ、各地で佐野氏、小山氏、宇都宮氏、結城氏、足利氏、桐生氏、奥州藤原氏などの強力な軍団になっていった。佐藤義清の生まれた佐藤氏も秀郷流の強力な軍団の一つである。その基盤は紀伊国(和歌山県)那賀郡にあり、「在庁官人」として広大な公領や荘園の管理権を掌握していた。その兵力は常時、数百騎から一千騎の精鋭部隊を動員する軍団である。また京都には佐藤一族の出先機関があって「北面の武士」(朝廷の親衛隊)の主力部隊となっていた。(『尊卑分脈』藤原秀郷流佐藤氏系図、目崎徳衛『西行の思想史的研究』佐藤氏の紀伊における勢力基盤の考証)

 

1133年、佐藤義清15歳、このとき一族の軍団から選ばれて、「北面の武士」の指揮者である藤原実能(さねよし)の側近となった。この藤原氏は佐藤一族の代々の主家である。両家は主従の強い絆で結ばれていた。側近とは、日常の警護はむろんのこと、事件や乱が勃発すれば主家や皇室を命懸けで守るとともに、戦況を主家に正確に伝え、また主家の指示を一族の軍団に正確に伝達して動員する役割である。日々の鍛錬、秀でた武芸、緻密な頭脳、主家の一族と共に過ごすための高い教養、いざとなればわが命を絶って主君を守る覚悟が要求された。佐藤義清は筋金入りの忠誠心を備えた青年武士であった。佐藤一族は「北面の武士」の中に強固な派閥を形成しており、義清はその佐藤軍団の頭領候補でもある。義清一人が動く背後には、常に鍛え抜かれた数十名の同族武士とその従者たちがいた。義清はその上に高い教養を持っていたのである。それゆえ主君の藤原実能からも鳥羽上皇からも息子のように可愛がられ、頼りにされた。「北面の武士」の同僚には平氏軍団の御曹司で同じ歳の平清盛もいたが、佐藤義清の存在感はずば抜けて周りを圧倒していた。(目崎徳衛『西行の思想史的研究』徳大寺家と佐藤氏の主従関係、『山家集』詞書~実能との親密な交流の記録)

 

しかし世の中は変転する。変転の核は主君藤原実能の妹の待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)である。璋子は鳥羽上皇の中宮(后)であり、かつては誰よりも美しく、絶対権力者の白河法皇の庇護のもとに宮中で権勢を極めていた。しかし白河法皇が崩御すると事態は一変する。鳥羽上皇と待賢門院の第一子(崇徳天皇)の種はじつは白河法皇であるとするスキャンダルが勃発した。鳥羽上皇は当然知っていたと思われるが、その憎しみが表立って爆発した。鳥羽上皇の寵愛は美福門院(藤原得子)へと移り、美福門院が皇后の座に座り、待賢門院は権勢を失っていく。宮中では待賢門院が生んだ崇徳天皇を廃して美福門院の生んだ王子を天皇に即位させる(近衛天皇)準備も着々と進んだ。「北面の武士」の支配権も美福門院の従兄弟の藤原得信や平清盛らに移りつつあった。藤原実能も佐藤義清も佐藤一族も水面下で激しく抵抗しつつも徐々に追い詰められていく。

 

藤原実能は紙一重で失脚を免れつつ陰で妹の面倒を見たが、妹を憎む主君の鳥羽上皇の手前、表向きは妹と距離を置くしかない。藤原実能は代わりに最も信頼する家臣の佐藤義清に待賢門院を守るよう命じたはずだ。義清は小さいころから待賢門院を慕っており、待賢門院を慰め喜ばせる手紙を書くのは得意であった。しかしいまや待賢門院を表立って守っているのは佐藤義清ただ一人となっていた。それでも佐藤軍団を率い、鳥羽上皇からも信頼されている義清がいる限り、美福門院らは待賢門院をこれ以上追い詰めることはできなかったのである。(『古事談』崇徳天皇の出生に関するスキャンダルの記述、『愚管抄』鳥羽院政下の美福門院の台頭と待賢門院の失脚、目崎徳衛『西行の思想史的研究』待賢門院を支える徳大寺家臣としての西行の役割)

 

1140年10月15日、しかし佐藤義清は突然、出家する。23歳である。(注、当時の23歳は働き盛りの大人である)。待賢門院と佐藤義清との密通という新たなスキャンダルが仕組まれたのだ。もし密通が事実なら、鳥羽上皇の待賢門院に対する怒りはさらに燃え盛り、待賢門院をさらなる窮地に追い込んだのは間違いない。これを口実として佐藤一族は「不敬」の罪に連座させられて紀伊国の領地の管理権を没収され、佐藤軍団は一族もろとも崩壊しただろう。主君の藤原実能も失脚に追い込まれたかもしれない。権力抗争とは、正当性には関係なく、敵対勢力を殲滅することが目的である。そしてスキャンダルの恐さは、捏造を事実に変えてしまうところにある。(『西行物語』保延六年十月十五日の出家の日付、目崎徳衛『西行の思想史的研究』出家の政治的背景と密通説の否定的扱い)

 

佐藤一族数百家の命運を背負っている義清にはこんな犠牲を強いる馬鹿げた密通などありえなかった。ただし、苦悩の極致にあった待賢門院が、信頼できる義清と親しく話をしているうちに感極まって義清の胸で泣き崩れた可能性はありうる。義清は待賢門院があわれだった。藤原実能と待賢門院の兄妹は己の命に代えても守り抜くべき主君である。とくに待賢門院は子どものころから慕い続けた「主家の象徴」であった。しかし彼女は白河法皇にもてあそばれ、7人の子供を生み、夫の鳥羽上皇から憎まれて10年もの孤閨をかこち、鳥羽上皇の怒りを恐れて誰も近づくことなく、すでに初老の40歳になっていた。義清より17歳年上である。(注、今の40歳はとても若いが当時は初老である)。むしろ義清が本当に恐れたのはこのことだと思える。一度でも抱いてしまえばただの肉体だ。それで幻滅すれば、ずっと慕い続けてきた思いも、「主家の象徴」として崇めてきた思いも、みな崩れて雲散霧消してしまうのではないか。このことは直観で解っていたに違いない。だから義清は永遠に主君を慕い続けるために、主君として崇め続け、忠義の誠を尽くし続けるために、待賢門院の肉体に触れることは一度たりともありえなかった。だからこそ西行(佐藤義清)は生涯待賢門院を慕い崇める歌を詠み続けたのであり、詠み続けることができたのである。

 

しかし待賢門院を佐藤義清が表舞台で守っている限り、このスキャンダルは収まらない。このままでは待賢門院、主君実能、佐藤一族や家族の破滅も危ぶまれる。ついに義清は「殉職」の覚悟をする。主君や一族全体を守ることを考えれば、待賢門院を守り切ることができなかったのだ。武士の務めを果たせなかった。義清は泣いた。「なにとなく 流るる涙 いかなれば わが心にも しられざるらむ」(なぜかわからぬが流れるこの涙は、一体どうしたことか。自分自身の心でさえその理由がわからぬほど、深いところから溢れ出てくる)。

(ちなみに義清が去ったあとの待賢門院は2年後、美福門院や近衛天皇を呪詛した廉で捕えられ、無理やり落飾させられることになる)。(『山家集』「なにとなく…」の歌、目崎徳衛『西行の思想史的研究』主従の極限としての情念の昇華)

 

しかし主君の藤原実能は義清の殉職を許さなかった。義清を殉職させずに表舞台から消すためには、すべてを捨てさせて出家させ、乞食坊主に身を落とさせるしかない。いや、義清は自らすすんで乞食坊主となって乞食坊主として主君と一族への忠誠を生涯貫く覚悟を決めた。この日、西行が誕生した。そして生涯、乞食坊主として主君の実能や待賢門院、その子息らを助け、自らの一族の軍団と連絡を取りあって、人事を尽くし続ける。

 

西行の妻の身元に関する資料は残っていないが、同じ武士の出であると考えるのが自然だ。それも軍団・佐藤一族かその縁戚であっただろう。美しく聡明な女性である。夫が佐藤一族の命運を背負っていることも承知している。いざというときの覚悟もできている。義清が出家を告げて家を出るときも妻はすべてを理解していた。泣いて縋る4歳の娘を縁側から蹴落として振り切る義清に、ただ必死にその無事を祈った。妻は出家した西行(義清)を慕い続け、2年後、待賢門院の落飾(1142年)に呼応するように自らも尼となり、西行のいる高野山の山麓、天野の里に隠棲した。天野より先は女人禁制である。さらに9年経って娘が15歳になると、同じく尼となって天野の里の母に合流したのだ。西行は高野山と都とを頻繁に行き来したが、そのたびに途中にある天野の妻子の元に立ち寄って団欒を過ごし、さらに3人の子をなしたといわれる。佐藤家の系図には計4人の子らが載っている。この事実は、妻もまた軍団「佐藤一族」の一員として、西行と同じ「忠誠」を共有していたことを物語る。そして西行の出家も一族と主君を守るための夫婦共同の苦渋の計画だったことも物語っている。すなわちこの夫婦は心から理解し合い、支え合い、愛しあえる最高の夫婦であった。

 

佐藤一族・軍団からは、義清が出家したことで佐藤一族の将来を危ぶむ声が上がったほど、彼の存在は大きなものだった。しかし義清が乞食坊主となって表舞台から消えたことで、一族は「不敬」や「連座」の危機を免れたのだった。(『西行物語』および『山家集』天野の妻子の記述、『JR西日本 Blue Signal』西行の足跡と家族に関する記述の参照、目崎徳衛『西行の思想史的研究』出家後の家族関係と佐藤一族の安泰)

 

1186年、西行69歳、東大寺再建の勧進(寄付集め)のために鎌倉を訪れ、源頼朝と対面する。頼朝は、乞食坊主となっても主君のために「誠」を尽くし続ける西行を、最大級の礼をもって迎えた。頼朝は西行に「歌」のことではなく、「弓馬の道(武士の心得)」を熱心に尋ねた。「弓馬の事、其の誉れ最も高し。願わくは其の奥旨を承らん」。頼朝は夜を徹して西行の話に聴き入ったと伝えられる。

別れ際、頼朝は西行に「銀の猫」を贈るが、西行は門を出てすぐに、道端で遊んでいた子どもにその銀の猫を与えて立ち去った。頼朝はこの報告を受け、頼朝が鎌倉の権力の頂点にあってもなお西行はその恩恵を受け取らず、いまは亡き主君(藤原実能と待賢門院)への「終生の忠誠」にのみ生きていることを理解し、心からの深い尊敬を抱いたと伝わる。(『吾妻鏡』1186年8月15日の条~対面および銀の猫のエピソード)

 

(以上、西行の前半生の情熱。 こののち乞食坊主なった西行の本物の人生が始まる。西行は見えなかったことが見えるようになっていく。)

 

 

 

現代AI社会への応用

AIは、計算によって「最適解」を導き出す。しかし、西行のように「一族を救うために己を消し、報われない忠義に生涯を捧げる」という非合理な美学は、アルゴリズムの範疇にはない。 損得を超えて「信義」に殉じる力こそ、AIには代替不能な人間独自の尊厳である。

Airbnb創業者のブライアン・チェスキーは、危機に際しても目先の利益より「コミュニティとの信義」を優先し、人間中心の連帯を説いた。断崖絶壁で損得を捨て、己の「信ずるところ」を貫く覚悟。それこそが、AIを道具として使いこなし、社会の責任を引き受ける人間独自の姿勢である。(『Airbnbストーリー』/『米国ハイテク経営者の倫理声明』)

 

 

哲学の核心

西行は前半生において、主君に殉じる「誠」を武士の完成形にまで高めていた。(目崎徳衛『西行の思想史的研究』)。そしてのちに真理とは外界の現象(「花が咲く」など)にあるのではなく、その奥底に流れる「霊的な生命の輝き」と繋がることにあると悟る。西行は華やかな地位や権力(外界の現象)を捨て去ることで、日本人が古来より大切にしてきた「霊的感性」へと回帰した。(西行『山家集』)。

 

 

 

人物概略

西行(佐藤義清)・歌人、武士。北面の武士として鳥羽院に仕えるが、23歳で出家、乞食坊主になっても忠誠を貫き続けた。さらに漂泊の旅の中で真理は「霊的な生命の輝き」にあると悟る。西行はこれらを和歌に詠み、後の日本人の精神構造に深い影響を与えた。 1118年〜1190年3月31日。主著:『山家集』

 

 

 

 

 

 

 

(次回は3月1日です)