。。。つづき
「 推古30年2月22日 」
うちが発信しました記事から
思い浮かびました日付
推古天皇の音、周波数を
体感しておりました。
『日本書紀』によれば、612年に御所に須弥山と唐風の呉橋(屋根、欄干つきの橋)がある庭を建設したことから、路子工と呼ばれるようになったという。当時の日本では、既に庭園建設も盛んに行われていたが、技術者として記録が残る人物としては日本最古である。その後、全国を回り当時の日本を代表する三河の矢引橋、水内の曲橋、木襲の梯橋、遠江の浜名橋、会津の闇川橋、兜岩の猿橋など180もの架橋に携わったとされる。
山梨県大月市猿橋町猿橋に所在し桂川を架橋する猿橋には、志羅呼(しらこ)という百済からの渡来人が建造したとする伝承がある。
猿橋に関する文献史料は中世から存在し、現在の猿橋が『日本書紀』に登場する兜岩の猿橋と同一とは限らないが、路子工の出身地が同一であること、架橋の時期が推古天皇の代と路子工の活動期と重なることから、同一人物の可能性がある。
わたしの四次元脳の脳裏には
が、映し出されておりました。
「 恐竜橋 」
水の中の火でも在る
わたくしが、おりました。
土木建築の火水さまといえば
加藤清正公も、思い浮かんでまいりますね。
織田信長は、その権力を以って、天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。
しかしもとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えない。


































