。。。つづき
オトタチバナはヤマトタケルの妻だ。ヤマトタケルの物語は『古事記』『日本書紀』に載っている。
ヤマトタケルは景行天皇の子どもとされているが、その実在は疑わしい。古代の英雄伝説を、ヤマトタケルの名のもとに一つにまとめたものと言われている。
しかし不思議なことに、ヤマトタケルにまつわる伝承が日本の各地に伝えられている。
ヤマトタケルは景行天皇の子どもとされているが、その実在は疑わしい。古代の英雄伝説を、ヤマトタケルの名のもとに一つにまとめたものと言われている。
しかし不思議なことに、ヤマトタケルにまつわる伝承が日本の各地に伝えられている。
例えば、ヤマトタケルが焼津で火攻めに会ったときに使った「草薙の剣」とされるものが、愛知県の熱田神宮に現存しているし、ヤマトタケルの墓と伝えられる場所もいくつか存在している。
しかしこれはよく考えるととても奇妙なことではないだろうか。漫画「巨人の星」の主人公、星飛勇馬が使った「大リーグ養成ギブス」が、野球博物館に展示されているようなものだろう。あるいは彼の生い育った長屋が、東京の下町に現存するとしたら?
しかしこれはよく考えるととても奇妙なことではないだろうか。漫画「巨人の星」の主人公、星飛勇馬が使った「大リーグ養成ギブス」が、野球博物館に展示されているようなものだろう。あるいは彼の生い育った長屋が、東京の下町に現存するとしたら?
もちろんヤマトタケルの物語は、個人の創作ではなく、何らかの歴史的背景を持つ口頭伝承から編集されたものではあるが。それにしても、各地に残っているヤマトタケルの物語伝承については、どう考えればよいのだろうか。それらはどのようにして成立してきたのだろう。
例えば横須賀に走水(はしりみず)神社と言うのがある。ここは「三浦半島の東端で、浦賀水道をにらむ交通・軍事上の要地であった。古代の古東海道の房総半島への渡海地として『古事記』『日本書紀』にも登場する。」「走水の港を見下ろすような高台にある走水神社は、日本武尊とその妃弟橘媛命を祀る。この神社の由来は『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇の子日本武尊が、東夷征討のため走水に立ち寄り、上総へ渡る時になると海が荒れ船は進退を失ってしまった。これは海神の怒りのためと考えた弟橘媛は、自ら荒海に身を投じ神の怒りを鎮めた。そのおかげで尊は無事に渡海できたという。のち尊の冠を村人が賜り、これを石櫃に納めて御神体として建立したのが走水神社だという。」(引用は、『神奈川県の歴史散歩<上> 山川出版社』184-185ページ)
しかしこの物語に関連した神社は、他にもある。わたしの知るかぎりあと二つあって、一つは神奈川県中郡二宮町にある「吾妻(あづま)神社」、もう一つは同じく神奈川県川崎市にある「橘樹(たちばな)神社」だ。
吾妻神社の伝えるところによると、入水したオトタチバナ姫の櫛と着物の小袖がその近くの海岸に流れ着いたので、それを御神体として陵墓を造り祀ったのが、吾妻神社の起こりとのこと。二宮町は、小田原市のとなりの、相模湾に面した町で、いかにも漂着物が流れ着きそうな場所ではある。
川崎市の橘樹神社に伝わる話も同工異曲で、オトタチバナ姫の櫛と着物が流れ着いたので、それを収める陵墓を造り祀ったとある。その陵墓と伝えられる古墳も神社の近くにある。
吾妻神社の伝えるところによると、入水したオトタチバナ姫の櫛と着物の小袖がその近くの海岸に流れ着いたので、それを御神体として陵墓を造り祀ったのが、吾妻神社の起こりとのこと。二宮町は、小田原市のとなりの、相模湾に面した町で、いかにも漂着物が流れ着きそうな場所ではある。
川崎市の橘樹神社に伝わる話も同工異曲で、オトタチバナ姫の櫛と着物が流れ着いたので、それを収める陵墓を造り祀ったとある。その陵墓と伝えられる古墳も神社の近くにある。
結局オトタチバナにまつわる伝説を伝えている場所が少なくとも三つあることになる。しかしどれが本当かなどと考える必要はない。言ったように歴史的事実があって、それを伝える言い伝えができたわけではなく、『古事記』『日本書紀』の語る物語があって、それが特定の土地と結び付けられ、その土地の伝説となったものだからだ。そういう意味ではそれは、各地に伝わる義経伝説や平家の落人伝説と近いものがある。文献の物語る話がある特定の土地と結びついた伝説となる。いわば物語が土着化する。
そうした伝説は一体どのようにして成立するものなのだろうか。
そうした伝説は一体どのようにして成立するものなのだろうか。
一つは地名ということがある。つまり地名を介して、その土地と文献に著された物語が結びつくということ。
「吾妻」にしても「走水」にしても、また「橘樹」にしても、ヤマトタケルとオトタチバナの物語が著される以前に、すでに存在していた地名ではないだろうか。
「吾妻」にしても「走水」にしても、また「橘樹」にしても、ヤマトタケルとオトタチバナの物語が著される以前に、すでに存在していた地名ではないだろうか。
「吾妻」については、『古事記』には「ヤマトタケルが関東遠征からの帰途、足柄山の坂からはるかに相模の海を見渡し、オトタチバナのことを回想して、『ああ、吾が妻よ』としみじみお嘆きになった。そこからこの地を『吾妻』と呼ぶようになった」と書いてある。
しかしこれは話が逆で、ヤマトタケル以前から関東地方は「吾妻」と呼ばれており、その「吾妻」に掛けてこのヤマトタケルの話が創作されたというのが、本当だろう。(ちなみに「あづま」の語源は調べたがよく分からない。たぶん「どんづまりの僻地」という意味なのではないかと思う。つまりそれは「京都から見た東の僻地」という意味だろう。「奥州」というのも「京都から見た奥地」の意味であるのと同様だ)
しかしこれは話が逆で、ヤマトタケル以前から関東地方は「吾妻」と呼ばれており、その「吾妻」に掛けてこのヤマトタケルの話が創作されたというのが、本当だろう。(ちなみに「あづま」の語源は調べたがよく分からない。たぶん「どんづまりの僻地」という意味なのではないかと思う。つまりそれは「京都から見た東の僻地」という意味だろう。「奥州」というのも「京都から見た奥地」の意味であるのと同様だ)
しかしこの「吾妻」の由来を語る地名説話が『古事記』にあることから、オトタチバナの悲劇があった場所が相模湾沿岸に捜し求められ、二宮町の「吾妻神社」と結びつくことになった。そして人々の想像力がそこでの出来事、つまり海中に没した姫の櫛と小袖が、その海岸に流れ着いたという出来事を創作させた。そういうしだいなのではないかと思う。
「走水」にしても「橘樹」にしても、事情は同じようなことだったろう。物語の舞台設定が、実在の地名と結び付けられ、その地で実際に起きた出来事と受け取られるようになり、その土地の伝説となる。そしてその舞台設定はこの場合、物語が書かれるはるか以前の口頭伝承に由来する。例えば「走水」という名は、潮の流れの速い海域という意味だが、その場所のことは関東に遠征した大和朝廷の兵士たちには、恐ろしい海の難所として知られていただろう。そして彼らの間には、走水での英雄の悲劇の物語が語り継がれていたかもしれない。そういう口頭伝承が一つに集められ、編集されてヤマトタケルの物語が出来上がった。そしてその物語が逆に、その土地にまつわる伝説を生み出していった。そういうことなのだろう。
しかしそういうように、物語が人々の間に「自分たちの物語」として受けとめられ伝説となっていくには、ただ地名の類似や一致だけでは足りない。その物語そのものの「とらえる力」がなければならない。人々に感動を与え、彼らに「我がこと」として受けとめさせる力が、つまり自己同一化作用の力が、その物語になければならない。そう言えるだろう。
例えば「判官びいき」という言葉があるが、あれは義経の物語の持つ自己同一化作用のことを言っている。義経の悲劇的運命を人々は「我がこと」として受けとめ、共感し、涙する。物語の持つこうした「とらえる力」こそ、伝説を生み出す源なのだといえる。物語のもたらす感動は、人々の間に、それを「自分たちの物語」とする自己同一化要求を生み出し、伝説を生み出す。そのように言っていいのだろう。
さてそれでは、ヤマトタケルの場合はどうか。実際に読んでみるとこれもとても感動的な物語であり、それが語られた場では人々の心を打っただろうと思う。
例えば、海神の怒りによって海が荒れ、ヤマトタケル軍団の船が進むことができないときに、オトタチバナが人身御供としてわが身を捧げる決心をして、入水するところで、「菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を波の上に敷きて、その上に下りましき」。畳を何重にも波の上に敷いて、その上に姫を降ろしたと書かれている。もはや助けられないのは分かっている姫だが、せめて畳を厚く敷いて手厚く送り出したいという思いが伝わってくる。そしてその畳の上に座って波の上を遠ざかっていく姫が、最期に夫ヤマトタケルの名を呼ぶ。「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも(あの相模の地で敵に火攻めにされて危ういときに、あなたはわたしの名を呼んで安否を気遣ってくださった)」と。
その後関東遠征から帰郷するとき、足柄山の坂からオトタチバナが沈んだ相模の海を望み、ヤマトタケルは妻の名を呼び慟哭する。「吾妻はや(わが妻よ)」と。それからの彼の運命も過酷なもので、この物語が語られるときには、人々の涙を誘っただろう。現に今でも彼の物語は、演劇(歌舞伎?)で取り上げられている。
このような強い自己同一化作用を持つ物語が人々の心をとらえ、その間に物語との自己同一化要求を生み出すとき、物語の舞台と類似した地名や環境に触発されて、物語がその土地の伝説となっていく。そして伝説は、その土地の人々の紐帯となり、精神的基盤となる。
人々は物語あるいは伝説を欲する。自己を形成し、肯定し、根づかせるために。このようなことが、わたしがここで言いたかったことだ。
オトタチバナ伝説より
滝の川の水源のひとつに数えられた滝つぼに、河童が住んでいたといわれています。いたずらをすることもあったようですが、村人たちは、水の大切さを伝え、子どもたちを水の事故から守るためにも、河童を大切にしていたようです。
滝の川と同じく横浜港に注ぐ鶴見川。99匹の河童が住んでいたという伝説が残されています。鶴見川の河童は、村の力自慢の若者と相撲をとったとか。ここの河童もいたずら好きでしたが、きゅうりを川に流したら姿を見せなくなったともいわれています。
相模湾に面した神奈川県茅ヶ崎市には「河童徳利」という伝承が残されています。昔、村人がいたずらをしたカッパを助けました。河童は、お酒がいくらでも湧き出るという徳利をお礼に差し出しました。ただ、村人はお酒ばかり飲み、怠け者になってしまったとのこと。しかし、徳利は底を3回たたくと、お酒が出なくなり、村人は元通りの働き者になったといわれています。江戸時代の話ですが、その村人のお墓も残されています。
神奈川県を流れる「目久尻川(めくじりがわ)」。ここも有名な河童スポットで、目久尻川に架かる伊勢下村橋の高欄に、河童の像がまつられています。伝承によると、ここの河童は悪さをしたため村人に捕まり、目をくり抜かれてしまったとのこと。そのため、目久尻川という名前が付けられたともいわれています。
目久尻川の続きです。かつて村が不作に襲われた折、食べ物に困った河童の母親が、子ども河童に、やっと実った畑のきゅうりを食べさせてしまいました。しかし、母親河童は村人たちに捕まって、目をくり抜かれてしまいました。哀れに思った老夫婦がお地蔵様を建てました。
数年後、村が日照りに襲われた際、お地蔵様に雨乞いをすると雨が降り始めました。老夫婦はよろこんで外に出て、どこからともなくやってきた子どもが、馬の鼻をとって、田植えを手伝ってくれました。作業が終わると、子どもはいつのまにかいなくなっていました。帰りがけ、老夫婦がお地蔵様を見ると、泥だらけ。村人たちは、母親河童に悪いことをしたと後悔し、供養したとのことです。
山梨県内に源を発し、東京と神奈川との境にもなっている多摩川。ここにも、さまざまな河童伝説が残されています。民話のひとつに「河童のホオズキ」があります。ホオズキに化けた河童が、それを拾おうとした女の子を川に引きずり込んでしまったという話です。水の事故に気をつけなさいという教訓でしょうか。
🌎地球母さんからのメッセージ☆ 2013/09/04 (水)🌏
💫✳️✴️宇宙へ~☆✴️✳️💫
金色の砂はいつものように



マイピラミッドの頂点から私のチャクラを通り

月と地球を繋ぐ



金色の光の柱を建てたのね

足下を見ていたら

金色の砂は伊豆の海へと降り注いでいたの

伊豆の海から

伊豆半島~二宮~伊勢原~大和~相模原~埼玉と
亀裂、もしくは地底の山のように観える場所に
深く深く入って行ったの



おなじようにね
伊豆の海から富士山へ



伊豆の海から九州へ



伊豆の海から北海道へ



伊豆の海から沖縄へ



伊豆の海から世界中へ


と亀裂、もしくは地底(海底)の山と観えるエネルギーラインに
宇宙の愛の金色の光の粒子は
深く深く満たされていったの







大丈夫 

大自然からのメッセージは

八百万の神々からのメッセージ

愛には愛で
御返ししましょうね
(*^▽^*)
うちの芯、変わってないにゃあ。(笑)































🌀

💓







