中学1年の夏休みに、
「毎日、基本文を音読しながら一通り書く」
という宿題が出た。
どのぐらいの数の文があったのか、
今ではもう定かではないけど、
3語~5語で構成された第一文型、二文型、三文型の平叙文、否定文、疑問文、あと疑問詞が含まれた文…だったような気がする。
その宿題は、動機をもたらした。
be動詞と一般動詞の区別がつかない、
これが動機の根源だった。
Does he be happy?
ではなぜいけないのか?
本気で悩んだ。
知っている単語も少ないから、考える手立ても少ない。
英語の辞書なんて、持って無い。
だからといって教科書をめくってみても、よくわからない笑
基本文に出現している単語を根拠に、自分で考えるしかない。
そのうち
happy, nice, ...が「い」で終わることに気づいた。
同時に、run, do, go, ...が「母音う」で終わることに気づいた。
(音読の効果もあるだろな、これ…)
そんでもって、
・「い」で終わる語について尋ねる時は「ひっくり返す」
・「母音う」の時は、do または does
に気づいた。
これは、とてつもなく大きい発見だった。
そのちょうど一年後に、
日本語文法を習った時の衝撃といったら。
「それ、私自分で考えたことじゃん(涙」(笑)
今考えると、これが先生になりたいな、の原体験だったんだろうなー。
自分で見つけたことを、人に教えていきたいなと思ったんだろうなあ。
その根拠は、
「私は英語のルールを自分で見つけることができた」。
あの宿題が無かったら、今の自分は無いと思う。
だから、あの時の英語の先生に感謝している。
(教科書はCROWNだったなー。
翌年はTOTAL, その次はSunshine)
そこからなぜか道を誤って
法則を覚えていくことに徹してしまい、
回り道をしたけれど。
今は、法則を教えるんじゃなくて、
「その法則に気づかせることが先生の役割」
だと理解している。
自分で考えて、法則を見出したら、
その法則は、見出せたという感激とともに、
もう忘れない。
「実は、~なんですよ」と後出しジャンケンのように答えを言われても、
「自分で気づけた」ことの意味は大きい。
現に、そこから30年経っても色褪せない。
やっぱり、語学は、暗記だけではできるようにならないですね。「なぜ?」を考えないと。
「なぜ?」は他の教科教養にも必須だけど、
そこにリアリティを添加する意味で
「考える」過程が必要だと思う。
佇まいが凛としている本。
深い洞察に居ずまいを正してしまう。
なるほど、で済む域ではないような。
