わたしもね!
ありますよ、死にたくなる時。
昔ほどではないけど、
今もたまにあります。
わたしは今まで、
そういう気持ちを「ハートの叫び」だと説明してきました。
「ハート」から「あなた」にむけた、
死ぬほど切ない叫びということね。
でもって、
先日にこの世とあの世のことがはっきりわかったら、
「ハート」はそもそもなんなのか・誰なのかってこともよくわかってきた。
「ハート」はね、「自分」のようで、
実は「自分」じゃない。
ちょっと宗教的な引き合いで言うと、
「神の意志」を「わたし」に教えてくれるセンサーみたいな役割のもの。
でもってややこしい話ですが、
そもそも「神」も「ハート」も「わたし」の寄せ集まりで、
「わたし」自身も神とハートの寄せ集まりの一部です。
※頭がこんがらがる人はこの段落は飛ばしてヨシです。笑
簡単に言えば、
「ハート(=わたし)」が死にたくなる時って、
「わたし(=神なるすべて)」の役に立ててない時です。
何故ならば、「ハート」となるべき素粒子(細胞だったり、霊性だったり)は、
「意志」を持って「ハート」に成っている。
その意志が遂げられないならば、
存在価値を見失う。
だから死にたくなるんです。
たいていは死なんけど。笑
「無」であり「無限」の次元ではなく、
わざわざこの三次元界(3D)に存在することにした「わたし達」にとっては、
その「死にたい」という感覚すら、
本来は大ご馳走なんですけどね。笑
死にたい人は本当に死んでみたらわかると思うんですけど、
だけど「死にたい」って本心のようで本心じゃないじゃないですか。少なくとも、「死にたい」あたりの思考があるうちは。
ほんとに死にたい人の言葉は、
「死にたい」とはならないから。
でもって、
「死にたい」とか「死ねばいいのに」と思う人の「本当のところ」を癒すには、
やっぱり「ご自愛」です。
ここで言う「ご自愛」とは、
その「ひとりぼっち」という「分離した感覚」をちょっと横に置いといて、
自分の中に深く潜るような感覚の作業のことです。
お前なんか、死んじゃえ!!
‥って自分に言わせてる、
「ほんとのところ」をヨシヨシしてあげるような。
生きてると、
苦しいなーと感じることってままあります。
んで、
楽しいなーと感じることだってままあります。笑
この、「感じる」という感覚は「あの世」には無くて(というか無限にあって)、
そもそも「感じてる感じ」自体がこの世の本当の「ご馳走」であり、存在意義でもあります。
だからとりあえず、
苦しくても楽しくても、
「その感じ」に浸るというのが大切で。
だって「あの世」は無が無限に続くけど、
「この世」ではかならず有限なんです。
「ずーっと同じ」は無いんです。
だけど、「この世」は「あの世」とつながってるというよりは「重なってる」ので、
手を伸ばすと「無限の可能性」とつながります。
だけど実現するのは三次元的な表現になるので、
「豊かさや幸せ」が具現化したものは、
モノとか人とかお金になる。
なんか話がズレてきちゃった。涙
言いたいのは、
お前なんか、死ねー!!
‥と自分に向かって言いたくなることが多い人は、
一度ちゃんと時間を取って、
バカだの死ねだの、自分に向かって思う存分言ってみてください。
ノートに殴り書きするのもありかな。
思う存分やったら、
それでもほんとは死にたいわけじゃなくて、
ただ幸せになりたいだけだったってことを思い出せる。
そしたら、今度はキリッとなりますよ。
さっきまでより、
今この瞬間から幸せになろう!
ってさ。
それで、
「今あるもの」で「できるだけのこと」をするんだよ。
「目に見えてるものだけが全て」
だなんて信じちゃダメ。
わたし達は三次元の存在だから、
いつかちゃんと死ねる。
だけど、「死ぬまでにできること」ってあるじゃない?
絶望して、気を取り直して、
そしてやっぱり絶望しても。
「ハート」は最後まで、
ミッションの通りに「わたしを幸せにする方法」を誰よりも正確に、
しつこく教えてくれる子ですよ。
「わたし」が全てを諦めても、
「ハート(=神)」は諦めてなんかいませんよ。
ほんと、だからそういう意味も含めて、
自分自身をないがしろにしちゃだめなんです。
さあもう今日はあったかくしてふて寝して、
明日の自分に会いに行きましょ♡

