・・・・・・っということで、臨死体験。
この話をよく聞きますね。
もし、これが真実なら、死後の世界が俄然現実味を帯びてきますもんね。
これってスッゲェ~思考の跳躍なんですよね。
だって、死が恐くなくなるのですから。
・・・・・・
脳に詳しい養老孟司先生はゼロと言っています。
即ち、死とは無です。
解剖学に長年携わった人の意見としては、説得力があり過ぎます。
ぼくなりにこれを解説すれば、
「生まれる前の世界を覚えていますか?
死はその世界に戻るだけです。」
・・・・・・
ハイハイ、分かりますよ。
身も蓋もないですよね。
・・・・・・
宗教はこういう立場を絶対に採りません。
どんな宗教でも、死後の世界はあって当然のことでなければなりません。
死後の世界がなければ、宗教は儲からないからなのです。(^^ゞ
死後の世界を信じるから、お布施をするのです。
死後の世界を保証するから、自爆ベルトを巻いて自らスイッチを押すのです。
・・・・・・
でもねぇ~~~
死後の世界ってどんな世界?
男なら酒池肉林?をイメージしますよね。^m^
女性なら? 酒を飲めないなら? なんてヤボな質問は受け付けません。
だって、宗教って基本的に男尊女卑なのですから。(これは以前書きました。)
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結局のところ、死後の世界を具体的にイメージできる人はいないのです。
なぁ~~~んとなく信じたい。
ただそれだけです。
でも、それだけなのに宗教は、ぼくらのなぁ~~となくに巧妙に付け込んできます。
アブねぇ~危ねぇ~~
・・・・・・
そんな非科学的な御伽噺ではない【説得力のある科学的な仮定】。
脳の一部にはあるプログラムが埋め込まれている。
そのプログラムがアクティベート(作動開始)するのは、死に瀕する状況に置かれた時だけである。
普段の生活では、それは絶対に作動しない。
まるで、トロイの木馬みたいなソフトウェアなのです。
死というものは生命体にとって、辛い体験である。
その辛さを和らげるために、生命のすべてに神様が埋め込んだブログラム。
例は悪いけれど、首にナイフが突き立てられたとき、そのときプログラムが作動して、天国のイメージを死に行く者に映像として見させるのです。
これって、案外説得力があるのではないでしょうか。
車が道から逸れて路肩を一回転する短い間、いままでの人生が走馬灯のように脳裏を巡ったという話はよく聞きます。
臨死体験も、これの延長線上にあります。
たまたま、このプログラムが起動されたあとに生還した人が語るのが臨死体験です。
結局のところ、この科学的な仮定は、養老先生の立場(無神論者)と同じです。
・・・・・・
そこで、ぼくなりに死後の世界をイメージしてみます。
宇宙の始まりはビッグバンです。
これって、最先端科学ですが、簡単に言えば「有は無から生じた」ということです。(エントロピーの話はここでは避けます。)
そう言った途端に、科学と哲学や宗教との壁は取り払われます。
老子はとっくの昔に言っているじゃないですか。
あるいは聖書で言う「始めに光あれ」になります。
もし、無=有が正しいとすれば、ぼくらの死が無となることはないでしょう。
昔、絶対的な真空とはそこに何も存在しないのではなく、実はゼロで満たされているということを読んだことがあります。
人間はもちろんのこと、この世界の存在すべてがビッグバンから繋がっています。
養老先生の言うように、死後はゼロ即ち「無」は間違いないでしょう。
でも、無は無限と同義なのです。
そう考えれば、死ぬことに関する悩みは少しは緩和されるのじゃないでしょうか。
だって、死はすべての始まりなのですから。^m^