ある聖職者との対話(その5) | so what(だから何なんだ)

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・・・・・・っということで、聖職者と面と向かって対話するチャンスは滅多にありません。

ここでいう聖職者とはキリスト教プロテスタントのある一派の牧師さんです。

ちなみにご存知でしょうが、牧師と神父は異なります。

このブログでも何回か取り上げたとおり、ぼくは「神」について強い関心を持っています。

そこで、失礼とは承知の上でストレートな質問をいくつか彼にぶつけてみたというわけです。

彼は丁寧に答えてくれましたし、さらに詳しく説明しようとさえしてくれました。

しかし、昼食をとりながらでしたので、いかんせん時間が短か過ぎました。



もちろん彼は神の存在を疑っていません。

最初に書いたとおり、お互いが自分の体験した奇跡の話をしました。

だけれども、ぼくは奇跡を聞かされるほど余計に神の証明にならないと感じるのです。

次に彼が話してくれたのが、ホーキンスとアインシュタインという天才科学者の例です。

アインシュタインは「私の研究成果を神が存在しないという証明に使わないでくれ。」と言ったそうです。

確かに科学は宗教とは正反対に位置しています。

人間は科学的に説明されることによって、納得することが出来ます。

ところが、アインシュタインは神の存在を疑っていませんでした。

ホーキンスもそうです。

研究すればするほど、神の存在以外に説明が付かないことが多すぎる。

したがって、神の存在は疑いのないものだと言ったそうです。

ひねくれ者のぼくは、逆に神の存在証明のために科学者を利用しているじゃないかと思ってしまいますが、説明としてはこのほうが奇跡を持ち出されるよりよほど納得できるのです。

そう、「神の存在は疑いようもない」。

これこそが原点であり、出発点なのです。

信者の立場からすれば、疑うことが理解できないとなるのです。

逆に、神が存在しないことを証明してくれと言いたい筈なのです。

・・・・・・

そう、神の存在の証明を信者に求めてはいけないのです。

自分で信じるしかないのです。

それは不可能なことではありません。

何故なら、お賽銭を投入したあと、試験の合否結果を見る前、賭けた馬が出走する時、宝くじを買ったとき、誰だって神様に祈るじゃないですか。

そうはいっても、神の存在について対話することは無意味ではありません。

彼と別れる時にぼくは言いました。

「それでもぼくは(疑う)トマスであり続けたい」と。


・・・以上、このシリーズおしまい。


P.S. この牧師さんは日米の神学校で学び、実力と行動力を兼ね備えた尊敬すべき人物です。
   たぶん(業界では?)有名な人のはずです。