ときどき僕は、自分が何を基準に生きているのか考えることがある。
たとえば朝、コーヒーを淹れるとき。
豆を挽くか、それとも今日はインスタントにするか。
歩いて行くか、電車に乗るか。
誰に会うか、会わないか。
小さな選択が、静かに一日を形づくっていく。
でもその判断基準を、僕たちはあまり意識しない。
なんとなく、という言葉の中に沈めてしまう。
気づけば、過去の習慣や、他人の価値観や、もう役に立たなくなった常識が、僕たちの代わりに決めている。
ある日、ふと思った。
もし選択の基準をひとつだけ変えるとしたら、
何を置けばいいだろう?
ずいぶん考えて、結局とても単純な答えに落ち着いた。
面白いかどうか。それだけだ。
新しいことを始めるとき、人は慎重になる。
失敗するかもしれない。
損をするかもしれない。
笑われるかもしれない。
未来は、だいたい不安の形をしている。
でも、もしその出来事が面白いなら、結果はそれほど重要ではなくなる。
面白さは、失敗の意味を変えてしまう。
それを経験に変える。
ときには、物語に変える。
面白いという感覚は、人生の痛みを少しだけやわらげる、透明なクッションのようなものだ。
僕は昔から、できるだけ面白くないことを避けてきた。
といっても、大げさな話ではない。
仕事を変えるときも、働き方を変えるときも、
ただ「こっちのほうが面白そうだな」と思った方へ歩いただけだ。
それが正しいかどうかは、あまり考えなかった。
正しさは、たいてい後から誰かが決める。
面白さは、今この瞬間にしか存在しない。
だから僕は、なるべく今を選ぶことにしている。
もちろん、人生には退屈なこともある。
やらなければならないこと。
避けられないこと。
終わりの見えない作業。
そういう時間を完全になくすことはできない。
でも、それを遊びに変えることはできる。
ルールをつくる。
記録をつける。
意味のない物語を頭の中で始める。
ただそれだけで、現実の輪郭は少しやわらかくなる。
子どもは、それを自然にやっていた。
床の模様を迷路にし、雲を動物に変え、石ころを宝物にする。
世界を変えていたのではない。
世界の見え方を変えていただけだ。
大人になると、何かに縛られている気がする。
お金とか、時間とか、責任とか、名前のはっきりしない重たい空気とか。
でも本当のところ、それらの多くは外側ではなく、内側にある。
常識とか。
比較とか。
完璧であろうとする気持ちとか。
それらが、自由の輪郭を細くしていく。
もし何の制限もなかったら、何をするだろう。
子どもの頃、何に夢中になっていただろう。
誰の影響を受けて、ここまで来たのだろう。
そういう問いは、忘れていた地図をそっと広げるような感覚をもたらす。
そしてたいてい、答えはとても静かな場所にある。
面白がる、というのは何かを派手に楽しむことではない。
それはむしろ、世界の小さな揺れに気づくことだ。
コーヒーの香り。
季節の温度。
まだ名前のついていない予感。
そういうものに、少しだけ注意を向けること。
人生は長いようで、たぶんそれほど長くない。
だから僕は思う。
できるなら、なるべく面白がって生きていたい。
面白がる人のまわりには、なぜか少しだけ光が集まる。
理由はわからないけれど、たぶんずっと昔からそうなのだと思う。
そして今日もまた、僕は小さな選択をする。
こちらの方が、少しだけ面白そうだ。
それだけで十分だ。
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