こんにちは。
安藤 秀子です。
こころの勉強をしはじめた頃
ある講演会で
「コミュニケーションは
違いを知るためにある」 と、聞いたんですね。
当時の私は、コミュニケーションは
わかりあうためにするもの。
だと思っていたので
その言葉は
なんか、寂しいなぁ。
と感じていたことを覚えています。
以前、はじめて会った人から
「なぜ、結婚してないの?」と
聞かれたことがあったんです。
今でこそ、この会話は
ハラスメントに取られそう(苦笑)
そのときは
「ホント、なぜでしょうねぇ~笑」と
私の特技の「おとぼけ」
返答をしたせいなのか
それ以上は、会話に進展が
なかったんですけどね(苦笑)
私がとぼけた理由は
そもそも、私は、徐々に仲良くなっていくタイプ。
なので、初対面から
プライベートに踏み込む質問はしないし
踏み込まれるのも苦手だからなんですよね。
そして、とぼけることを含めた
やり方が、私のコミュニケーション方法。
でも、その方は、初対面でも
自分のことをオープンにじゃんじゃん話すタイプ。
なので、全てをオープンにすることで
相手との距離を縮める
コミュニケーションの仕方なのだ
思うんですよ。
これを「違いを知るため」
と考えると…
「初対面からプライベートな話はしない」
という私の基準と
「オープンでいい」という
相手の基準の 違いがあるだけ。
でも「わかり合うことが前提」だとすると?
「いきなりプライベートなことを
聞くなんて、ちょっと失礼じゃない?」
=私はそんなことしないのに・・・
という私の基準(価値観)で相手を測るか。
あるいは 、わかり合うためなんだから…
と、相手に合わせて
言いたくもないことまで
話そうとするかもしれないんですよ。
「違いを知るため」だと考えると
わかり合えなくてもそれはただの「情報」。
この人は、私とは違う基準を持って
コミュニケーションをとっている。
それで完結するんですよね。
今でこそ、それがいいのか悪いのかは
わからないけど
とぼけたりする行動で
相手との境界線をとることをしてる。
だけど、昔の私は、察することが得意で
人との境界線を引くことが苦手。
嫌な気持ちがあっても
「あの人にも事情があるから」と
自分の気持ちを押し殺して
相手のことをわかろうとしていた。
でも、その心の奥には
我慢している自分のことを
相手に、わかってもらえていない
寂しさもあったと思う。
でも、自分を押し殺す方法でしか
その寂しさは解消されない。
と思い込んでいたので
人とわかりあえないなんて
なんか、寂しいなぁ。
という言葉が出たんだ。
と、今ならわかる。
「コミュニケーションは
違いを知るためにある」
あの時冷たく感じた言葉が
今では、自分の基準を守るため。
として、私の中に根づいている。
「違い」だと思えたら
笑顔で挨拶はしながら
それ以上は関わらない選択をしても
罪悪感は薄れるかもしれないよね。
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