「辞めますね」
そう言い残して、
Aさんは去っていった。
ことの始まりは、
あるプロジェクトの
ミーティングだ。
会場に入ったとき、数人が気づいた。
「あれ。Aさんの席がない」。
遅れて到着したAさんも気づいた。
自分の席が、用意されていないことを。
同僚が、設営を担当したスタッフに尋ねる。
「ちょっと、Aさんの席がないんだけど?」
「え? Aさんは今期から参加しないと聞いてますけど」
もちろん、それは完全な誤報だった。
Aさんは事前に「さ来週のミーティングは休む」
と伝えていたらしい。
しかし、それを聞いた事務方は、
「Aさんは来期から来ない」という、
最悪の取り違えをしてしまっていた。
その日は、たまたま欠席したBさんの席に
Aさんが座ることで、会はそのまま進行した。
そして、ミーティングの終了間際、
来期に向けた新体制への意気込みを
メンバーが語り合うなかで、
Aさんは静かに告げた。
「私、これで辞めますね」
新しい体制になって、みんなが
「ここからまた頑張ろう」と
思った矢先のことだった。
周囲はみんな「何かの手違いだから」
「誤解だから」と必死に引き留め、
懇願したが、Aさんの決意が覆ることはなかった。
痛恨の連絡ミス。
確認すれば防げたはずの
イージーミス。
Aさんに非はまったくない。
一方で、客観的に眺めてみると、
「席がなかったくらいで、
そんなに怒らなくても…」
と、思うかもしれない。
けれど、
この件にはもう一つの側面があった。
実はAさん、これまでのプロジェクトが
「正直、全然楽しくなかった」と、
後になって明かしてくれたのだ。
やりがいのなさ、組織への違和感。
そんな心のモヤモヤを抱えながら、
それでも「新体制だし、もう一度だけ
頑張ってみようか」と踏みとどまっていた。
そんなギリギリの状況で突きつけられたのが
「自分の席がない」という現実だった。
悪意がなかったとしても、自分の存在を
いないものとして扱われたという事実。
それが、口には出さないけれども、
辞めるか残るか迷っていたAさんの
背中を、強烈に押してしまった。
一度切れた糸は戻らない。
今回の行き違いは、
Aさん本人が秘めていた
「最後の踏ん張り」すらも、
一瞬でゼロにしてしまった。
今でも、
「もしあのとき、普通に席が用意されていたら、
Aさんは今も一緒に笑っていたんだろうか」
と考えてしまう。
新体制を一緒に迎えたかった。
何かのきっかけで
戻ってきてくれないだろうか、
と切に望んでいる自分がいる。
しかしその一方で、
これで良かったのかもしれないと、
どこか冷静で納得する自分もいる。
というのも、「楽しくなかった」と
打ち明けてくれたAさんの切ない
顔が浮かぶからだ。
それは、笑顔ではなかった。
席の件は、ただの不運なミスではなく、
Aさんが次のステップへ進むための、
運命の押し出しだったのではないか、と。
納得したい。自分がいるのかもしれない。
いずれにしても、
去り行く人の決意は堅い。
残された私は、
失ったものの大きさに、ただ
立ち尽くすことしかできない。
せめて、この痛みを忘れずに、
今ある場所を少しずつでも、
誰もが「自分の席がある」と思える
場所に変えていくしかないのだろう。
今日の一枚
