レミゼラブル   | ダリの高島の着物の国から徒然と

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レミゼラブル劇場公開されたなぁ。
行きたいなぁ。

昨日夜中フェイスブックでレミゼラブルの事に触れていらっしゃる
人の書き込みを読んで余計に。。。


半年ほど仕事や自分のこれからについて色々迷っておりました。

そんなどん底の時に必ず読み返すのが
山崎豊子の『沈まぬ太陽』と『レミゼラブル』


沈まぬ太陽は小説ですが
レミゼラブルは小説、お芝居、両方大好きなのです。

劇場公開された事もあり、久しぶりに映画館で観たいなぁということで
今日はレミゼラブルについて書いてみます。。

途中まで書いてみて誰が読むんだ。。こんな暗い記事。。。。
と思わないでもないのですが、えぇ所詮自己満足。
今日はダリのneko は休業で気にせず続けてみよう。



前振り
いきなりですが私は性善説と性悪説なら
性悪説こそが人間の本質だと思っております。

人は生まれながらに醜く罪深いからこそ
教育や道徳観や人の痛みに触れる事によって
少しずつ全うな生き方を覚えていくものだと思うのです。

環境や動物や全てのものに対しての葛藤や
自分の根底に対する嫌悪から抜け出す為に
正しき道を模索し人として向上しようとするものだと思うのです。


性善説のように生まれながらに善であるという思想は
本来の醜さを自分の中には認めず
社会や他人に責任転換できる気がするので抵抗があるのだと思います。

或は生まれながらに美しく高潔な人はどこかにはいるのかもしれませんが
未だ出逢った事がないのでいらっしゃるなら出会いたいものだとは思います。

そんなわけで私は赤ん坊が天使だとは到底思えない。
(子供嫌いではないです。一応)

真っ白なキャンバスと同じで
何色にも染められていない事で無限の可能性が有る事は否めないし
真っ白=無知である事で赤ん坊を罪深く醜いというのは極論だとは思います。

真っ白いキャンバスよりは色を塗り重ねた老人に心を動かされるし
綺麗な色だけで描かれた淡い絵よりも毒を含んだ絵がより好きだなとも思います。

理性で制御することが上手ではない
小学生くらいまでの本能剥き出しの子供より
周りとの中和や思いやりを身に付けた狡い大人のほうがまだ綺麗だと思うのです。

本能が一概に悪いとは言えませんが
動物と違い人は考える事で良い道にも悪い道にも逸れてしまう。
成長過程の人が 正しい道を生きる為に必要なのは
国や環境によっては、教育や愛情や信仰であったりするのでしょう。

私は信仰する宗教はありませんので
家族から受けた愛情が根底にあり、その中で身に付いた躾や生き方、
今迄読んだ本や経験等から自分の信じる正しい生き方を学びました。

そしてしょっちゅう踏み外して落ち込みます。

落ち込んだ時は自分の正しいと思う生き方から自分がどれだけ踏み外しているかを考え
世間一般で説かれている正論とを天秤にかけて考えてます。

時々正論が全て正しいとは限らないという人がいます。
ただ残念な事にそう口にだす人の主張は何とも頼りない事が多い。
純粋な興味からどういうことか掘り下げて聞いても
説得力が全くなく
なんとなくアウトロー的発言に酔ってみたかっただけなのかと
残念な気持になってしまう事が多かったのです。

逢った事がないだけで、解り易く納得させて下さる人がいるのなら
そんな人もついでに逢ってみたいものです。

大昔から沢山の哲学者や宗教を基にした正論こそが
人の生きる道を支えてくれる灯りとなるのだと私は信じております

常に正しい人など存在しないからこそ正論によって人は道を逸れても戻ってこれます。
自分自身が狡く汚い思考や道に外れていった時に正論や道徳から自分を見返すと
常に自分を追いかけ自分を見下ろす自分の目はごまかせないのだと思い知らされます。

そんな自分の目に苦しむ事も葛藤もなく生きるということは
実は他の生き物より更に劣った害でしかない存在に自分自身を貶める事になるのでは
ないでしょうか。

前振り長!!
 
レミゼラブについてですが
レミゼラブルを宗教色が強いとか
宗教色が強いが故に日本人には理解しがたいと評価される人が時々います。

私は全くそうは思いません

恩人が司教であり
神の教えがどうのこのという描写もところどころでてきますが
国や時代背景を思うと多少の宗教的表現はちりばめられているのは想像できますし
あらすじは至ってシンプルで物語を左右するほどのものではないと思います。

私の好きな場面に
信じるものもなく貧しく惨めで荒みきった主人公ジャンバルジャンが
お世話になった司教から銀食器を盗み捕まるシーンがあります。

心が冷たく凍りつき人を、人の愛など信じれなくたった彼に
司教は食器は私が与えたものだと告げて彼を放免させただけに留まらず
正しき事を行いあなたの人生をやり直しなさいと銀の燭台をも彼に差し出すのです。
彼は司教に胸を打たれ悔い改め正しく生きる為に更に激動の人生を送るのですが。。。


人生に絶望し人の愛を信じれなくなった彼は何も信仰に打たれたわけでもなく
信じる事ができなくなっていた人の暖かい心に触れて只々感動し感謝したのです。

絶望と苦しみで荒んだ孤独な心には無償の愛情だけが救いになり
自分にもその愛情を与えてくれる人がこの世にいるという事実こそが
金貨や暖かいスープよりも唯一彼を救う事ができたのです。


私はこの場面が小説でもお芝居でも大好きで
この後辛く厳しい人生が彼を待っていたとしても
この出会いで悟れたからこそ彼は正しくあろうと強く生きる事ができ
幸せを獲得する事ができたのだと思うのです。

ほんの少しの温もりこそが唯一人の心を救い
人の魂を救うという事実にこそ私は深く感動します


レミゼラブルを初めてお芝居で見たのは小学生、
その後図書館で本を借りて読み、大人になるまで何度も読み返しました。
苦しみ迷い必死に這い上がろうとする人々が沢山でてきますし
解り易くハッピーエンドではありません。


山崎豊子の沈まぬ太陽もですが
苦しく正しく生きていても決してすべが報われていい結果が待ってるわけではない、
そんな厳しい現実が突きつけられる物語です。

だからこそフィクション、ノンフィクション関係なく
よりリアリティーが感じられるのです。

レミゼラブルのジャンバルジャンの最後をバッドエンドだとは思いません。
彼は愛を知り自分の生き方を見つけ貫く事ができました。
多くの人が言うハッピーエンドからはかけ離れているかもしれませんが
ハッピ–エンドだろうがバッドエンドだろうが
バルジャンも沈まぬ太陽の恩地さんも関係ないのです。

ハッピーエンドという見返りを求めずに
正しい道を歩くという生き様こそ私がこの物語から教えてもらった事なのです。

私自身が正しく生きれば報われるとどこかで思っていたかったからかもしれません。
そんな見返りを期待した自分を恥じる気持に気づかされたのです。

そして醜く狡い自分にも正しく生きるという事に間に合うのであればと思えるのです。

司教の暖かい施し以上の愛情や人の善意に囲まれていながら
自分は何を悩み絶望した気になっているのか、
命をかけて戦い苦しみ美しく這いずり回ってるものがいる中で
自分は何てちっぽけな事で悲劇のヒロインぶっていることか。

重く決して明るい話しではなくとも
どん底の時こそ私が読み返すのは
そんな風に自分で自分を叱咤激励し自分に嫌悪する事で這い上がれるからなのです。

長々と書いてしまいましたが私にとって特別なお話なので
気が向かれた人はお芝居でも映画でも小説でもお試し頂ければと思います。


また同じ様に皆様の特別な本や心動かされた映画等があれば
こっそり教えて頂ければ嬉しいです。