48. チャレンジ(試練)


苦しみとは、物事があなたの望みと合っていないということにすぎない――そして実際には、物事があなたの望みに完全に合うことなど決してないし、そもそもあり得ない。物事はただ、その本性に従って進んでいくだけなのだ。


老子はこの本性を「道(タオ)」と呼び、ブッダはそれを「ダンマ」と呼んだ。マハーヴィーラは宗教を「ものごとの本性」と定義している。どうすることもできない。火は熱く、水は冷たい。賢者とは、物事の本性とともにくつろぎ、その流れに従う人のことである。


そして、物事の本性に従うとき、そこには影は生まれない。苦しみはなくなる。悲しみでさえ輝きを帯び、そこには美しさが宿る。悲しみが来なくなるわけではない――やって来る。しかし、それはもはや敵ではない。あなたはそれと友になる。なぜなら、その必要性が見えてくるからだ。その優美さが見え、それがなぜそこにあり、なぜ必要なのかが理解できるようになる。


こんな古い寓話を聞いたことがある――神が地上に住んでいた時代の話だから、きっととても古い話だろう。


ある日、一人の男が神のもとへやって来た。年老いた農夫だった。彼はこう言った。「いいですか、あなたが神で、この世界を創ったのかもしれません。しかし一つだけ言わせてください。あなたは農夫ではない。農業のイロハすら知らない。学ぶべきことがあります。」


神は言った。「では、あなたの助言とは何だね?」


農夫は言った。「一年だけ私に任せてください。すべてを私の思い通りにさせてください。そうすればどうなるか分かります。貧困など一切なくなりますよ!」


神はそれを受け入れ、一年が農夫に与えられた。

当然ながら、彼は最善だと思うものだけを求めた――雷もなければ、強風もない。作物に危険は一切ない。すべてが快適で心地よく、彼はとても満足していた。小麦はぐんぐん高く育っていった。太陽が欲しいときには太陽が照り、雨が欲しいときには望むだけの雨が降った。その年はすべてが完璧で、まるで数学的に正確なほどだった。


しかし、収穫のときになると、小麦の中身は空っぽだった。農夫は驚き、神に尋ねた。「何が起きたのですか?何がいけなかったのですか?」


神は答えた。「試練がなかったからだ。衝突も摩擦もなかったからだ。あなたは悪いものをすべて避けてしまった。そのため、小麦は実を結ばなかった。少しの苦闘は必要なのだ。嵐も雷鳴も稲妻も必要だ。それらが小麦の内なる魂を揺さぶるのだ。」


この寓話は非常に価値がある。もしあなたがただ幸福で、幸福で、幸福であるだけなら、幸福はその意味を失ってしまうだろう。それはまるで白い壁に白いチョークで文字を書くようなものだ。誰にも読むことはできない。黒板に書いてこそ、はっきりと見える。夜は昼と同じくらい必要であり、悲しみの日々も幸福の日々と同じくらい不可欠なのだ。


これを私は「理解」と呼ぶ。このことが分かると、人はくつろぐ――そのくつろぎの中にこそ、委ねるということがある。「あなたの御心のままに」と言うようになる。「あなたが正しいと思うことをなさってください。今日、もし雲が必要なら、雲を与えてください。私の言うことは聞かないでください。私の理解はあまりに小さい。人生やその神秘について、私は何を知っているでしょう?どうか私の声には耳を貸さず、ただあなたの意志のままに進めてください。」


そして、少しずつ、人生のリズム、二元性のリズム、極性のリズムが見えてくるにつれて、人は求めることをやめ、選ぶことをやめる。


これが秘訣である。この秘訣とともに生きてみなさい。そうすれば、その美しさが見えてくる。この秘訣とともに生きると、ふと気づいて驚くだろう――人生の祝福とはなんと偉大なものか!どれほど多くのものが、毎瞬間あなたに降り注いでいることか!