奇跡講座を学んでいくと、私たちはそれが絶対にない、という場所の中で、人生の探し物を必死で探してきたんだなと実感します。
「咎める(とがめる)から伝わらない」
これは、私がここまでの人生の中でもかなり時間とエネルギーをかけて探してきて、でも見つからない、わからない、上手くいかないという感覚を味わってきた、【人とのコミュニケーション】に関する、奇跡講座が教えてくれた答えでした。
咎める(とがめる)という言葉を調べると
「犯した罪や過失を責めること。また、それに対する罰」という意味とあります。
相手に対して、この気持ちを持ったまま何かを伝えようとすると、それがどんなに相手を思ってのことであっても、善きこと、正しいことであっても、その場の誰もが望んでいることであっても、伝わりません。
また「犯した罪や過失を責めること。また、それに対する罰」というほどの強い思いではなく、「んー、それはちょっと違うんじゃないかなあ」という軽い感じの思いであっても同じく伝わらない、というところも重要で、思いの度合いやことの重大さ等は全く関係ないものでした。
見るべきは、至ってシンプルで、自分の心の中で何をしているのかだけ、でした。
相手を咎めているとき、私たちは相手に罪や過失があると見ています。そして結果として罰もやむなし、そこから学ぶこともある、それも経験かもしれない、などと考えています。
でも、この見方、判断こそが、自我の思考であり、幻想なのです。
真理に照らせば、罪も過失もありません。
だからもちろん罰も必要ありません。
だとすると、必要なのは、罪や罰を見ている私の見方を、別の見方で見たいです、と聖霊にお願いすることであり、相手に働きかけるための機会ではなく、自分の心の動きに気づく機会だったとみることだったのです。
自分が相手を咎めていたことに気づき、聖霊にその咎めの取り消しをお願いすれば、自然と、もともとお互いの間にあった愛が流れ出します。
本来私たちはそうなっているからです。
咎めだけが、愛をせき止めているのです。
これってコミュニケーションの極意だなと思います。
様々なコミュニケーション法や、伝え方を学んできましたが、極意はここに、心の中にあったのだと思いました。
この極意をこれからますます分かち合っていけますように。
そのためにますます私が自分の心に気づき聖霊に差し出せますように。
