“疲労したり、体力の呼び起こしを必要とする時は、背骨へ気を通す。
その方法は背骨で息をすること。背骨に息が通ると汗が出てくる。背骨の硬い所は通りにくいが、通ると「可動性」が出てくる。息を通すつもりだけでも、やっていると息が通ることが判る。その方法はただ背骨で息をすること。方法は簡単だが、精神が統一すると体の力は一せいに発動する。正坐でも椅坐でも、立姿でも臥姿でもよい。初めは瞑目してやる。出来るようになったら、眼を開いたままでもやれる。慣れれば歩行中でも、仕事をしながらでも出来ます。決断する事の遅い人、行動の鈍い人などは特に変わる。病気の経過の遅い人も、栄養物を食べても満ちない人も、これを行うと、それ迄と異なった活気のある体になる。しばらくすると体の中に勢いが湧いてくることがわかります。”
(「野口晴哉・整体入門」講談社より)
“呼吸は鼻でするものときめてしまっている人がある。しかし呼吸は全身でしている。中でも大切なことは背骨で呼吸することだ。特に心を背骨に集中して腰髄迄吸い込むことは、一切の健康問題を解決する力をもっている。そして背から腰で息を調えると、疲れない、老いない。いつも元気に活き活きと生きられる。ぜひ実行せよ。
吾々は今迄健康法というといろいろの体操類似行為を連想し、養生法というと飲食物の摂取方法のごとく考え、修養法というといろいろの観念をこらすことのごとく考えて、心を無にし呼吸を調えることの重要なことを閑却していた嫌いがある。しかし息が乱れては運動もスムーズにはゆかない。足に力があっても駆けつづける訳にはゆかない。人間という生活機関の原動力としては、飲食よりも空気の方が一そう端的である。どんな観念をこらしても、心を無にするより呼吸を静かにする状態はない。
東洋に於ける古来の養生修身の方法が一致したごとく、呼吸を深くして調えることにつきていることは故無きではない。インドに於けるアナ・アパーナ、中国に於ける練丹術、我国に於ける息長の術、その他古人の体験によって行われ伝えられたもので呼吸を無視したものは一つもない。剣をとるにも花を活けるにも茶をたてるにも、息ということを無視してその真髄はつかめない。養生修身の道に、心を無にし息を調えることが閑却されているということは、養生修身の道の不徹底なるを物語るものだ。
あまりに外物に頼りすぎて自分を失っていたのである。この辺で落ちついて調息のことを生活にとり入れる考えを持つ可きだろう。昭和二十六年二月 野口晴哉”
(「月刊全生」昭和42年9月号 野口晴哉『背骨で呼吸せよ』)
“今私は自分で自分に気を集めております。行気というのですが、自分の中の気を動かしている。その中でも、背骨に息を吸い込むということをやって健康を保っております。背骨に息を吸い込むと、体に故障があればひとりでに活元運動が出ます。出たら、その時やればいい。特別やる必要のない時は背骨が温かくなって、背骨がボキボキといって治り、汗が出てきて筋肉が弛みます。電車の中でも、歩いていても、ご飯を食べながらでも背骨への呼吸はできますから、健康のために或る時間をとるようなことはない。
愉気は人にやるよりはまず自分に気を通してみると、その効果はよく分かります。徹夜をしましても、背骨へ二、三回息を通すと背骨に汗が出ますが、それっきり眠くもならなければ元気も衰えません。二日目になっても別段何でもありません。”
(「月刊全生」平成30年3月号 野口晴哉『愉気1 (昭和44年9月 愉気法講座)』より)
“だるい時、疲れた時、身体に異常感がある時、心が不安定な時、気がまとまらぬ時、しずかに背骨で息をする。腰まで吸い込んで、吐く方はただ吐く。特別に意識しない。この背骨で息することを五回繰り返せば心機一転、身体整然とすることがただちに分かるであろう。
武藤博忠氏は「背骨に息を吸い込んだとたん、身体が充実することが分かりますねえ」とその実感を話されたが、山本有三氏も、背骨へ行気する方法をやっておられるとか、確かに若くなられた。
背骨で呼吸するといっても捉え所がないという人が多いが、それを捉えた人は皆、活き活きしてくる。顔がそれ以前と全く異なってくる。腰が伸びる。何故だろう。平素バラバラになっている心が一つになるからかもしれない。脊髄に行気されてその生理的なはたらきが高まるからかもしれない。
ともかく、人間はこういう訳の分からぬことを一日のうちの何秒間は行なう必要がある。頭で分かろうとして努め、分かってから分かったことだけ行なうということだけではいけないものがある。自分の心が静かになった時、自分の心に聞いてみるがよい。広い天体のうちの一塵である地球の上の人間が、分かったことだけやろうとしているその寂しさは分かるであろう。頭で分からなくとも、背骨で息をすることが、宇宙の心に通う道筋になるかもしれない。
荒唐無稽にあこがれる心は、潜在意識の裡には誰も持っている。そのために詩があり、お伽噺があり、宗教がある。疲れたまま眠るより、乱れたまま心を抑えるより、まず背骨で息をしよう。その後どうなるか。そういうことを考えないでやることが脊髄行気の方法である。”
(「月刊全生」平成18年2月号 野口晴哉『背骨で息せよ』)
“昨年十一月に開かれた活元運動研修会に出席したところ、三日目の三分間スピーチの時間に指名を受けた。ちょうどその頃、私は野口昭子著『見えない糸』を読んでいたので、その中の「後ろ姿」と題する文章と晴哉先生の「全生訓」の中の脊椎行気についての文章を結び付けて話してみた。
「後ろ姿」から抜き書きしてみると、
『全く独自な人間観察をしていた先生は、
「背骨は嘘をつかない。だから人間は背中が表だ」と言っていた。
脊椎の一側、二側、三側は、レントゲンにも写らない心の状態や動揺まで、すべて無意識に打ち明けていると言う。それを鋭敏な指の触覚で、読み取っていた先生が、当人の口で言う言葉より、背骨の語る言葉の方を真実としていたのは、当然であろう。
背骨が嘘をつかないから、後ろ姿も嘘をつけない。
私はこのごろ、先生が深息法のほかに、何故「脊椎行気」ということを提唱したか、改めて考えるようになった。先生は「脊椎行気は、操法している時でも、電車の中でも出来る。気が通ると背筋に汗が出てきて、疲れが抜け、敏感さを取り戻す」と言っていたが、私は長い間、いくらやっても汗が出るまでにはならない。それは自分の背骨を空想することも、感覚することもできないのに気負っていたからだ。
最近になってからふと気づいた。「背骨はもともと呼吸しているんだ。その呼吸を気を集めて見ていればいい」と。目を瞑ってやってみると、呼吸している背骨が一つ一つ見えてくる。そのうちに息がすーっと通る感じがして、初めて汗がぱっーと出てきた。体が軽くなり、何となく積極的な気分になる。
「これだ!」と思った。』
「後ろ姿」が『月刊全生』に発表されたのは、著者が六十九歳、昭和六十一年十二月号である。それを知って私は、まだ大丈夫と嬉しくなった。私はまだ脊椎行気ができない。しかし奥様でさえ、そのお年まで分からなかったことだったのなら、私もあきらめずにやっているうちに分かる日が来るかもしれない。希望と意欲が湧いてきた。
行気という点では、脊椎行気も合掌行気も同じなのに、どうして私にとっては、脊椎行気がこうも難しいのだろうか。
合掌行気の方は、入会後すぐに本部の愉気の会に出席し、多勢の人々の輪の中に入れていただき、先生から教えを受け、気を伝えられ、出席の回を重ねるにつれ自然に素直に体得していった。気負いもあせりも抱いたことがない。
脊椎行気はというと、『月刊全生』誌上で脊椎行気をすすめる記事を読み、自己流に時々実行してみるものの一向に自分の体が変わる感じをつかめない。簡単そうに見えて実は難しいことらしいと若干苦手意識を抱いていた。
多勢でいっしょに実習する時など、「ごいっしょに息を吸い込んで下さい。ハイ」と言われて、皆で「ウーム」というのも気持ちよくできたためしがない。私もまさに、「自分の背骨を空想することも感覚することもないまま気負って」息を吸い込んでいたらしい。
「背骨はもともと呼吸しているんだ。その呼吸を気を集めて見ていればいい」という一節を読んだ時、私の気負いはほーっと溶けていった。
又、「呼吸している背骨が一つ一つ見えてくる」という言葉に出会って、はじめて気がついた。私が今まで思い浮かべていた自分の背骨といったら、まるで一本の棒のようなもので、一つ一つの背骨の表情など全然見えていなかったことに。
「そのうちに息がすーっと通る感じがして」という言葉からは、私が自分の意志によってしゃにむに息を通そうとしていたのは間違いだったと分かってくる。息そのものが自ずからすーっと通っていってくれるのだ。”
“『見えない糸』には、「自灯明」と題する文章があり、そこにも体内の自由な呼吸について語られている。
『内観といっても仏教のそれでなく、自己流に漠然と目を瞑って体内の呼吸を見ていると、呼吸と一緒に張弛する気の動きが見えて来た。
それはまるで遊んでいるかのように、上がったり下がったり、らせん状になったり、8の字になったり、首から左腕へ行ったり、全く自由自在で、この‘気遊’とでも言いたいような気に先導されて、欠伸や涙が出てくる、汗ばんでくる。同時に微妙な全身の活元運動になって行った。
それは、今までの訓練による活元運動とは全く異なっていた。これなら車の中でも、何処ででも出来る。外からは余り見えないような細やかな動きだからだ。丁度、野の花がいつ咲いたか分からないような、そんな何でもない自然さと快さがあった。
私は「自灯明」の自が、人間のいいしで頑張る自力ではない、宇宙の息に連なる自であり、無限の灯明に包まれた安らぎの自であることを思い知らされていた。』
活元運動研修会で裕介先生が朗読して下さった晴哉先生の「全生訓」にも同じ言葉があった。
『頭で分からなくとも、背骨で息することが、宇宙の心に通う道筋になるかもしれない』”
(「月刊全生」平成18年2月号 宮坂行子『「後ろ姿」のこと』より)
“しかし思うように行動出来ない人もいます。行動というのは、背骨に力が出て来ると、行動する働きが起こる。生理的に申しますと、頭の中に起こった『こうしたい』『ああしたい』という意志が脊髄に伝わり、脊髄神経が、横紋筋を刺戟して、その収縮を起こし行動するのですから、背骨が弱くなってしまうと、頭に意志が起こっても末梢に伝わらない。「ハーイ」と言いながらお尻が上がらない、これもしなくてはならないと思っているうちに、思っているだけで草臥れて、何もしないで通ってしまう。
逆に背骨に力が出てくると、何か動作しないと落ち着かない。背骨に力があり過ぎる人は、つい余計なことを言ってしまったり、余計なことまでやってしまったり、心にもないことをしてしまうようなこともあるわけで、動作の基本は背骨なのです。背骨に力がないような場合にはみんな意志が弱いというけれども、意志は『こうしたい』『ああしたい』と思うのですから「意志が弱い」わけではなく、本当は「背骨が弱い」のです。よく「お尻が重い」というのも同じです。”
(「月刊全生」令和6年11月号 野口晴哉『どちらにもなる働き』より)
*「意志の強さ」とか「やる気」が背骨と関係があるのであれば、脊椎行気によって不登校や引きこもりの問題も解決できるかもしれません。
*二人組になって互いの呼吸を合わせ、イメージを使って相手の背骨に息を通すというやり方もあります。親子同士であれば通じやすいはずです。
*野口晴哉先生は、「背骨のしなやかさと若さの関係」についても述べておられますが、エドガー・ケイシーも肉体の若返りに最も効果がある運動は「猫のように背骨をストレッチすること」だと言っており、背骨を調整するための運動として、ウォーキングと水泳を勧めています。
*野口晴哉先生は、「胸椎11番のズレ」が同性愛や精神分裂症、異常性欲などの原因であるということを言われており、エドガー・ケイシーもまた、統合失調症の主な原因は「背骨や骨盤の歪み」であると言っています。ならば背骨に息を通し調整することで、様々な精神的な病の治療や予防もできるかもしれません。
“私は戦争の直後に、副腎皮質ホルモン、コルチゾンというリュウマチの薬を使ったために、女に髭が生えてしまったり、乳が大きくなった男の人に調整をよく頼まれました。それの調整に使ったのが胸椎十一番です。これを調整すると、女の髭がなくなる。男の乳の大きいのがなくなって、男は男に帰る。女は女に帰る。今頃のレズとホモとかいう人たちの胸椎十一番を確かめてみますと、みんな多少によらず下がっている。コルチゾンのあと始末は、上がっているのを下げました。その辺に、男女のホルモンの分泌状態を変える何らかの働きがあるのではないかと思うのです。胸椎十一番というのは、腰椎部から二つ上の椎骨です。たいていの人間の神経と椎骨の関係は、二つズレているのです。いつも末端にあるのが二つ下なのです。だから、胸椎十一番でそういうホルモンの分泌が変化するということは、あまり無理なこじつけではないと思います。ただ実際にそういう人たちの体を丁寧に観ていくと、十一番に変化がある。その後、精神分裂の人たちをみると、やはり十一番に変化があることが多い。そこで、性と胸椎十一番との繋がりを観ていくようになりました。”
(野口晴哉「体運動の構造 第二巻」(全生社)より)










