わたしには、中学生の頃には、
もう、自分が就きたい職業はありました。

好きなことが二つあって、
まず一つは、文章を書くことです。
でも、物語をゼロから作り出す能力はありません。
その自覚はありました。

詩を書いて、何度も入選したことはありましたが、

詩は、職業にはなりません。
それもわかっていました。

英語が得意だったので、「翻訳家」になりたいと、思いました。
得意な英語を活かしつつ、文章も書けるなんて、素晴らしいですよね。

もう一つは、グラフィックデザイナーか、
タイルのデザイナーになることでした。
グラフィックデザイナーとは、ポスターや、企業のロゴや、
アイテムのデザインをする人になりたかったのです。
また、「タイル」と区切って考えたのは、
ある一定のデザインパターンを作り、それを前後左右に繋ぐことによって、
新たな模様を生み出せる仕事だと思ったからです。
そう、文様を作り出す人になりたかったのです。

そして、現実をまだ知らなかった中2のわたしは、

何かになれると、思っていました。

ですが、かわいそうに、わたしは父から、
「大学に行かせることはできない。高校を出たら働くように。」
と宣告されてしまったのです。

ならば、電車で30分、駅からまたちょっと距離があるけれど、
デザイン科のある高校が一校だけあったので、そこを受けたいと言うと、
「遠いから駄目だ。」といいます。
あげくには、「どうせ就職するんだから、商業高校に行け。」と、
言われたんです。

商業高校。
わたしのような人間にとっては、まるで地獄です。
わたしは、そろばんが大嫌いでした。
算数も大嫌い。暗算も出来ません。数字には興味もありません。
それに、商業高校を出たら、就ける仕事は、事務オンリーです。
他の何にもなれません。
そして、学校はほぼ全員が女子。

わたしは、父の前で土下座をして、
「商業は嫌です。せめて普通科に行かせてください。」と頼んで、
どうにか、普通科の高校に入ることができました。

でも、当時、その高校は地域でも優秀で歴史もある一番の学校で、
もちろん、進学校でした。
入学した時から、進学しないと決まっているのは、わたし一人でした。

普通科の授業のほかに、「芸術」コースがあって、週に一回、二時間。
音楽か、美術か、書道を選択することになっていました。
わたしは、歌が大好きで、合唱が好きで、何年もやっていたので、
迷ったのですが、
美術を選択しました。

それは正解でした。

中学の時に、わたしの中のデザイン能力を見つけてくれた美術の先生がいて、
いつもポスターを、廊下に貼り出してくれてたのですが、
高校でも、美術の先生はわたしを大事に扱ってくれました。
立体の彫刻は、駄目でしたが、やはり、ポスターとか、
エッチングの図案とかは、
飛びぬけてセンスが良かったようです。

これは、画集をよく眺めていた影響もありますし、
わたしは洋楽を聴いていたので、おしゃれなレコードジャケットを見ていましたし、
他の子が必死に数学に取り組んでいるあいだ、
わたしは美術のポスターに使う文字を、
レタリングに起こして用意していたりしました。
だから、その差でしょう。

美術の最期の授業で、みんな、作品を返却されているのに、
わたしのが返ってこなかったので、
先生に聞きに行くと、ちょっと待ってて、と言って準備室に消えて、
しばらくして、みんながいなくなってから、
パネル貼りにした、わたしのポスターを、持ち出して来ました。

そうなんです。
先生は、評価してくれていて、
わたしのポスターだけを、木枠のパネルに貼ってくれていたのです。

余分なところがなく、レタリングした文字で書かれた一説で、
言いたいことが伝わるいい作品です、と言って、返してくれました。

嬉しかった思い出です。

進学校でしたので、就職担当の先生は、いません。
わたしは、3年になると、進路指導室に行って、
学校宛に来ている求人票を、一人で眺めました。

せめて、何か、クリエィティブな仕事はないだろうか。

すると、地元の大きな印刷会社からの求人がありました。
ああ、ここにしよう。
印刷をするなら、デザインもするはずだ。
もちろん、美大を出た人とか、専門学校を出た人がやるのかもしれないけれど、
どうしてもデザイン部に入りたいって、言ってみよう。

わたしは、そんなふうに決めて、その印刷会社を受けたのです。

会社はびっくりしていました。

わたしの高校は、進学校ですから、そこから大学に入り、
大学を出てから、その会社に入っている人は数名いましたが、
大体が、工業高校の人が現場に、
商業高校の人は経理や総務に、
大学を出た人が営業マンに、という配置のようでした。

わたしのように、あの学校から直接、就職する子は初めてだそうでした。

わたしは、美術の点は良く、
英語も、国語系も、トップ10には入っている成績でしたので、
面接の時に聞かれました。
「私立の文系大学なら行ける成績なのに、なんで就職なのか?」と。
わたしは正直に、
家が貧乏で、大学に行かせてもらえないのです、
働くしか選択肢はないのです、と。

もちろん、採用です。
でも、わたしがすぐに入社申しこみの手続きをしなかったので、
本社の専務が、菓子折りを持ってやってきて、
是非に入社してもらいたい、と言いに来ました。


入社してから、わたしは、とにかく、勉強するし精進するので、
デザイン部に入れてもらいたい、と、常務に直談判をし続けました。
ですが、前例がなく、
デザイン部には、美大か、それ相応の専門学校を出た人を配属することに
決まっているというのです。

なので、一旦、工場の上の、「版下」というものを作る、
グラフィック部門に入って、実戦で学んで、成果が見られれば、

デザイン部への部署替えも検討する、ということで、
わたしは、刷版のもととなる、紙に線を引いたり写真を貼ったりする、

「版下」というものを作る部署に配属になりました。

覚えることが山のようにありました。
でも、わたしは、これで給料がもらえて、

親から、食べさせてやってるとか言われなくなる、
買いたいものも自分の給料で買える、と思うと嬉しくて、
仕事は、プライドを持って、くそ真面目に取り組みました。

仕組みを知るためには、自分たちの次の部署である「製版部」の仕事を、

知っておくべきがあると思うと、
わたしは昼休みに、オジサンばかりの製版部に入り浸って、
色々教えてもらいました。
製版部は、カラー製版と、モノクロ製版に別れていましたが、
カラー製版の課長は、「昼休みぐらい休ませろや!」と、

聞いてもらえません。
すると、モノクロ課の課長が、物静かな人でしたが、
聞いてくれて、たくさんのことを教えてくれました。

わたしは、仕事が大好きでした。

日本は、バブルに向かって急成長をしており、
デパートのチラシには、ブランド物のロゴがあふれ出して来ていました。

毎日毎日残業しても仕事は減らず、
朝、出勤して見ると、
長い廊下に、仕事を全部並べて、
工場の工務部の部長と、うちの課長が、どれから取り掛かれば効率よく行くかと、
頭を悩ませているような日々でした。

ただ働くだけ。
帰ってお風呂に入ったら、髪を乾かす気力もなく、寝落ちしてしまう。
わたしはあまり食べられなくなり、
起きるのも困難になり、
しょっちゅう、喉に何かが詰まってて声が出なくなるとか、
耳が片方聞こえなくなるとか、
気を失うとか、
今思えば、もう、鬱病を発症していたのだと思うのですが、
具合が悪くなり、体重は38キロ、
ウエストは、一番小さいサイズの58センチのスカートをはいても、
くるくる回って、前後が逆になっているような状態でした。
二十歳の献血キャンペーンで、献血車が会社に来て、
その年に二十歳になった人を順に車に乗せるのですが、
わたしは、車の前で、体重計に乗っただけで、

はじかれてしまいました。
40キロない人からは、献血は受けない決まりだそうでした。

わたしは、デザイン部に移りたい気力をなくし、
タウン誌の専門になって、つまらない仕事になってしまいました。


長くなってきたので、また続きは、別日に書きますね。

本日もお越しくださり、ありがとうございます。

「ゆきのひ。」
 


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