1巻 《後編》   より

 

 第2巻の副題は「アカノクニ」。「建武の中興」が成るまでの戦乱の時代を象徴している。

 

 

【楠木家と宮家の関り】

「ねえ楠木さんって豪族だけど、ここら辺の豪族なの?」

 ・・・中略・・・。

「そうさ。と言っても、俺は上赤坂城の近くの、建水分神社という神社の氏子総代なのさ」

「たけみくまり神社? 氏子総代って何?」

 ・・・中略・・・。

例えば700年後に生まれた私が知っているほどの大きな神社ならわかるけど、聞いたことがないような神社の庇護者である人が、どうして日本の頂点の一族である宮家と関りがあるのかしら。

「構わんよ。その建水分神社は、金剛山やこの近隣の山から流れてくる水の確保と分配を司る神さんなのさあ」(p.36)

本書内では、人間生活に絶対に欠かすことができない重要な水に関わる水神を祀る「建水分神社」の氏子総代であることが楠木家の権力の源泉であると語られているのだけれど、それだけでは宮家との関係を明確に示せないだろう。

「水分神社」の本来の霊的源泉は、下記リンクにあるとおり、青根ヶ峰の霊石であり、その管理者としての丹生十八家こそが宮家なのである。

   《参照》  『「超古代」の黙示録』 後藤まさし (たま出版) 《前編》

            【役小角と水分(みくまり)神社】

大塔宮と雛鶴姫の第一子は、丹生十八家筆頭である葛城族の名をそのまま使い、葛城宮と名乗っていたことが、雛鶴神社(上野原市秋山無生野)の社殿に「雛鶴神社」「葛城神社」と並記で示されている。

水分神社は、大阪府と奈良県の県境にある大和葛城山麓の大阪府側にあるけれど、奈良県側には葛城水分神社や葛城一言主神社や高鴨神社や高天彦神社があるように、大和葛城山一帯は、葛城族の源郷。ゆえに楠木家が水分神社の氏子総代であったということは、丹生十八家の中の一族であったことを意味するのだろう。

2015年に、大塔宮とゆかりのある 金峯山寺 に詣で、その前日には 奈良神社巡り をしていたのだけれど、金峯山寺を開いた役の行者(役の小角)も葛城族であり、この旅の2日間は、大塔宮の血族である葛城族にゆかりのある神社を巡っていたことになる。

 

 

【源(みなもと)姓】

「北畠は、尊雲の母君の出だ」・・・中略・・・。

「北畠家は、元々村上源氏の庶流だ」

「な、何それ」

「・・・親王宣下しなかった皇子は皆、源姓を賜って皇族を離れ、他の貴族と同じ扱いになる。つまりは帝の臣下になるということだ。

北畠家も、元を辿れば皇族だった」

なるほど。帝の側室には、最高の血筋だ。

「庶流には清和源氏だとかいくつかあるが、村上源氏は公家社会で最高の家柄。そこに名を連ねるのが北畠家」

・・・中略・・・。

「・・・北畠親房という男がいるが、その男は後醍醐帝の信頼が厚い。英才、俊才、とにかく頭が切れる男だ。護良の母はその親房の叔母にあたる。けれど親房は、護良の母の父親、つまり親房から見れば祖父の猶子になっている。だから、世間では叔母ではなく兄弟として扱われているがな。・・・中略・・・」 (p.138-139)

この時代、帝の子を産み、その子が親王から皇太子になれば、その母方一族は絶大な権力を手に入れることになるけれど、帝側も権力を得るために、世代を跨いで交わることを平気でしてもいる。

政治。時折その黒さに、吐き気がする。

そこに愛だとかそんなものは一切存在しないように見えてしまう。(p.138)

そう、正にその通りだろう。

雛鶴が愛した尊雲(護良)も、畢竟するに、室町時代を開くことになった足利氏という武家側の思惑というよりは、大覚寺統と持明院統が両統迭立していた時代故に、帝としての権力を狙う公家側の思惑によって消された、と著者さんは解釈している。

 

 

【北畠顕家】

「北畠家は有能な人物ばかり輩出する。北畠親房の長男も、宮中一の出世頭として名高い。父よりも俊才で英傑だろう。雛鶴も知っているはずだ」・・・中略・・・。

「・・・真、白くん?」・・・中略・・・。

「あいつの本当の名は北畠顕家。美少年で有名な北畠家の次期当主だ。いや、親房は出家したから、実質的には顕家が当主だな」

顕家。それが真白くんの本当の名前。(p.140)

真白くんは、本書の第1巻から登場していて、読者は皆、最も気になっていた人物ではないだろうか。

大塔宮とは異様に親しい間柄で、雛鶴とも惹かれ合うという、実に危うい(ヤバイ?)美少年として描かれているのだから。

大塔宮の母は北畠家の出で、北畠親房とは兄弟格。真白は北畠親房の長男である。

母方が強いこの時代において、係累なき雛鶴が大塔宮の正室になることは実質的に不可能。それを可能にするためには、雛鶴が北畠親房のもとへ養子に入り、北畠家の実子として大塔宮に嫁ぐという手順になるはずである。故に、真白の実名が北畠顕家であると分かったところで、読者は真白の動向がますます気になってくるだろう。

「雛鶴が大塔宮様のことをそう思うように、僕も雛鶴のことをそう思っている」

真白くんの唇から落ちる言葉が、一言一句強力な破壊力を持って、私の胸の内を容赦なく壊していくから、痛くてたまらない。

「・・・私は、その想いに応えられない」

私には、真白くんを幸せにしてあげることはできない。

きっとどこまでいっても、私たちは平行線を辿る。

・・・中略・・・・

「でも、僕と生きる未来もあるってどこかしら覚えておいて」

涙と同じ薄い水色が、首を絞める。 (p.220)

 

 

【宇都宮公綱】

「宇都宮公綱がどうやらまだ京にいたらしいのさ」 (p.229)

「また戦? 確かに京で戦するよりも天王寺付近で宇都宮さんを打ち破ったほうがいいとは思うけど」

 ・・・中略・・・。

「いや、逃げるさね」

正成さんは楽しいとでもいうように、最上の笑顔で笑った。・・・中略・・・。

「・・・兵力を温存したいのさ、宇都宮は元々東国の将さ。あいつらは騎馬戦を得意とする」

武士の戦いと、貴族の戦いは、その兵法が違う。

関東の鎌倉の兵は、騎馬戦を得意とする。

淀川みたいな開けたところで一線を交えたら、確実に勝てる戦いだとしても、騎馬戦だと無駄な犠牲者が出てしまう。(p.230)

ということで、

宇都宮公綱幕府軍と楠木正成官軍との戦いは、結局のところ不戦引き分けのようなものだったらしい。

ところで、この宇都宮公綱(きんつな)というオッチャンを調べてみたら、とんでもない風見鶏だった。

最初は、鎌倉幕府軍として京に進軍していながら、鎌倉幕府滅亡後は官軍側につき(1転)、足利尊氏が後醍醐天皇に離反すると、足利と戦って敗れて足利(北朝)側につき(2転)、北畠軍(南朝)に真岡・烏山を攻められると足利尊氏が九州へ落ち延びたのを機に、再び南朝側に帰参した(3転)。

「忠誠も何もないドン引き風見鶏野郎」と言いたいところだけれど、この時代の武将たちは、みんな「強い側に付くのが当たり前」という考えで生きていたらしい。

何時の時代であっても、風見鶏にならずに済むのは、生活基盤が揺るぎない者だけである。

 

 

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