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 世にスピ本は沢山あるけれど、保江さんの著作のように、ご自身の体験過程・学びの過程をそのまま分かりやすく綴っている著作はそんなにない。喫茶店に集ったスピ仲間の興味深い体験談を聞いているような気分で、楽しく読めて学べるのがとてもいい。2014年7月初版。

 

【植芝盛平の合気は「神降ろし」】
 僕は植芝盛平にあこがれて合気道の世界に入った。・・・中略・・・。
 今年の1月、植芝盛平に直接手取り足取り教えを受けたという
山本光輝先生 が僕の道場に忽然と現れた。そして「盛平先生の合気は神降ろしだった」と、こともなげにおっしゃったのだ。
 神降ろし・・・! 
 そのひと言がぼくの耳に鮮やかに響いた。 (p.12-13)
 本書は、この「神降ろし」を中心に、スピリチュアルな体験過程が記述されている。
 ただし、神降ろしと言っても、邪霊が降りてくることが多いので、どの宗教団体でも、神降ろしという術法は封じられてきた歴史がある。邪霊を「神降ろし」してしまってはヤバイことになる。
 では、どういう場合に良い神様が下りてくるのだろう。
 日々の行いをきちんとして神様に好かれている人が、邪念を捨てて正しい気持ちで神降ろしをする。するとよい神様が下りてくるーーそう考えた。その好例が植芝盛平だったのではないか。(p.23)
 下記リンクのコメントの一番最後に、“核心”を書き出しておいた。
   《参照》  『大除霊』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》

            【基礎的な審神の法】            

 

 

【神様の視野】
 僕という個人の視野から神様の視野に移るとき、一瞬、目の前の情景がグニャグニャっとなって、その後しばらくの間、神様の視野になっていたのだ。
 神様の視野になっている間は、あらゆるものに本当に無条件の愛を注ぐことができた。愛魂の稽古のとき、「相手を愛しなさい」と僕はいつも連発していたが、あれはまだ個人的な愛のレベルでしかなかった。神様の視野にはほど遠いことがわかった。(p.20-21)
 こういう体験があるとないとでは、スピに向かう心の趨勢が全然違ってくるけれど、スピ好きな人々にとっては、事前学習としての里程標的指南にもなっているだろう。

 

 

【相撲の源流は、手乞いという神降ろし】
 神々のパワーを乞い願い、人を慈しみ、愛することが古神道の理想だった。・・・中略・・・。それが古神道で神様を降ろす作法を示す「手乞い」というものだった。それは日本武道の原型である相撲の源流にあたるとされる作法で、神様を降ろし、そのパワーと混じり合うことで、人を癒すことができるとされたものだった。場合によってはその力を用いて人を倒すこともできる。修業を重ねることで、その力が宿ると言われている。作法というより、一つの秘儀、秘密の儀式といったほうがいいかもしれない。 (p.33)
「相撲の源流は手乞いだ」と国技館のホームページにもあるが、神降ろしされた巫女と見聞役の男性の神主たちとの勝負に由来するわけだ。相撲にも行司がいる。神主と同じような装束をまとい、軍配団扇を持って「はっけよーい、のこった、のこった」と声を挙げる。本来の手乞いになぞって力士に神を降ろすことから、源流は手乞いであるといえる。(p.34)
 相撲は神事であるという一つの明白な説明だけれど、相撲文化史を書きたくて、これを書き出したのではない。下記の前振りとして、である。

 

 

【神降ろしされた場】
 著者さんは、手乞いによって自分自身に神降ろしされていた間、自分自身に向けられていたのではない会話が、自分にために話されている内容であるかのように感受していたことが書かれている。
 神降ろしできる霊格者さんの下で学べることの最大のメリットは、神学びの場が神降ろしの場になっていることだろう。おそらく、他の処でも聞いている様なことであっても、神降ろしされた場で聞くと圧倒的に深く理解できるはず。
 こういったことを体験している人は、少なくないはずだけれど、日頃、積み上げた学びがあまりにも少なすぎると、神降ろしされた場で学んでも、何も起こらない。逆に、常日頃、自ら鋭意学んでいる人なら、わざわざ神降ろしされた場で学ばなくても、以下のようなことが起こるらしい。
 喫茶店のマスターだった。趣味は読書。国会図書館のそばに引っ越し、借りられるものは借りて読んだ。三万冊ほどの本を読んだ頃から、何かが変わった。喫茶店に来るお客さんを見るだけで、その人のことがわかった。ある常連のお客さんが、いつもと違って見えた。「こうやったらいいですよと、あなたの守護霊が言っていますよ」と伝えた。その通りになった。(p.194-195)

 

 

【ギリシャ:オリンピック遺跡の瞑想部屋】
 ギリシャに行き、さらにオリンピック発祥の地へも行った。・・・中略・・・。選手が出番を待つ場所の跡に案内されたときのことだ。その一角に小部屋があり、お手洗いなのかと聞くと、違う、そこは瞑想部屋だという。(p.36)
「古代ギリシャのオリンピックは、今のようなものではありませんでした。・・・中略・・・。戦う前にそれぞれの待機場所で、それぞれが瞑想していた。何のための瞑想か。自分という自我をなくすために、瞑想が義務付けられていたのです」
 二人の代表選手の自我が消えるまで競技は始まらない。自我をなくしたかどうかを判別する行司役、特別の神官がいて「よし、二人ともいい」と判定すると、ようやく呼び出されて競技場に出る。(p.37)
 これを読んで、エジプトのテーベにあるカルナック神殿を訪れた時のことを思い出していた。神の意匠を受けるオベリスクが何本も立っている神殿の中ほどに、窓もなく天井も低い小部屋というか石室があったのである。おそらくハトシェプスト王女などが籠っていた瞑想部屋のようなものだったのだろう。
 古代人は、日本であれ、ギリシャであれ、エジプトであれ、現代人よりはるかに「神降ろし」というスピリチュアルな状態を重視していたはずである。

 

 

【キリスト活人術の再会】
 リャコブ師の家にはロシア正教の祭壇があり、彼が行っているのはほとんど祈りだけ。・・・中略・・・。彼はでっぷり太っていて、やっていることは僕がやっている活人術とまったく同じ。ちょっと技をかけると相手はこてんと倒れる。だからキリスト活人術の流れは、一方ではロシア正教から現在のシステマへと形を変えて広がり、他方ではモンセラート修道院のエスタニスラウ神父から僕に受け継がれたといってもいいかもしれない。・・・中略・・・。ふたつに分かれていたキリスト活人術という武道が、・・・中略・・・ようやく再開した。(p.40)
 スペイン、バルセロナにあるモンセラート修道院において、キリスト活人術は武道として継承されていたけれど、エスタニスラウ神父亡き現在、スペインでの霊統は断たれているという。
 恵果から空海へ密教の法灯が継承され、その後、中国において密教が断たれたように、あらゆる霊統・秘儀・秘伝・文物は、畢竟するに、役割のある日本人に伝えられ、日本に還流するようになっているらしい。なぜなら、日本は下記リンクにあるような国だから。
  《参照》  『大創運』 深見東州 (たちばな出版) 《後編》

           【日本神霊界】

 現実界における日本の状況がどれほどひどいものであっても、スピリチュアル界において、日本の盤石は揺るがない。

 

 

【神降ろしをする医師たち】
 徳久先生が岡山大学の産婦人科医として働いていたときの活躍話がたくさん伝わっている。たとえば、お産で逆子に先生が触ると、よく赤ちゃんがくるっと元に戻った。この時も母のお経が頭の中で響いていた。なぜかそれを聞くとうまくいく。そういうことをいくつか経験し、本に書いた。あのとき葉室青年が読んだ徳久先生の本は今も出版されている。(『新版 よろこびの発見 -- 科学から宗教へ --』 徳久克己著 日本教文社) (p.57)
 上記にある葉室青年とは、整形外科医から、牧岡神社を経て春日大社の宮司になられた葉室先生のこと。
   《参照》  『御力』 葉室賴昭 (世界文化社) 《前編》

            【”無我”の手術】

 葉室宮司が残した本がたくさんある。その中の一つ『大祓 知恵の言葉』(春秋社)に付いているCDには、葉室宮司の凛々しい声の大祓祝詞が録音されている。僕の必携書となった。(p.59)
 ほかにも、不思議な医療の事例がいくつも書かれている。
 後日、東大医学部の矢作直樹先生に会って、この話をしたら、「ええ、よくありますよ」とごく普通のように言う。
福島孝徳 というゴッドハンドと呼ばれる有名な脳神経外科医は、テレビなどにはその場面は決して流させないが、手術の準備が整って自分の消毒が終わったあとは、手術着と白足袋姿になるのだそうです。だからうまくいくのだと。お医者さんは神道系にしろカトリック系にしろ、祝詞とか神様のお力をいただいている人がおおいですよ」
 こういうことは、あまり公然とは出てこない。懇談会でしか言えないような話だ。近代知の先端を行く医療現場に神様の姿がチラホラ見えるとは、なんとも素晴らしい。(p.65)
 このようなゴッドハンドといわれるお医者さんがいる一方で、デビルハンドと言うしかない様なお医者さんもたくさんいる。抗がん剤を処方するような医師というのは、全くスピなセンスもなく、ダークサイドに憑依されたデビルハンド医師なのだろう。
    《参照》   『これが[人殺し医療サギ]の実態だ!』 船瀬俊介×ベンジャミン・フルフォード 《2/3》 

              【抗がん剤という猛毒】

 デビルハンド医師は、霊智もなければ教養もなければ平均的な人格すらもない。このインターネットが発達した時代において、いまだに平然と抗がん剤を処方しているというだけで、その魂は悪霊側に位置していることくらい誰だって容易に推して知ることができるというものである。

 

 

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