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 2015年、ノーベル生理学・医学賞を贈られた大村智先生に関する著作。JR中央線・韮崎駅前にある、韮崎市立大村記念図書館の中央に置かれていた課題図書。小中学生用の図書なので、大きな活字で、ちょっと難しい漢字にはフリガナがついている。無駄のない短文で綴られているので、とっても読みやすい。大人なら2時間で読める。2015年12月初版。

 

 

【大村先生のお母さん】
両親から「勉強しなさい」と言われたことはありませんでしたが、絵を描くように仕向けることに熱心な母親でした。・・・中略・・・。成長して大人になった大村先生が、美術に深い関心を示し、理解を深めるようになったのは、子ども時代のお母さんの教育のおかげだったのです。(p.34-35)
 この本を借りた韮崎市立大村記念図書館は3階建てビルの2階にあり、1階には上掲写真に取り込んだ「韮崎大村美術館サテライトスペース」がある。大村先生が購入した美術品のうち、韮崎市に贈られたものらしい。
 大人になってからのあるとき、母親に養蚕日誌を見せてもらったことがありました。
 そこには、カイコの成長記録が克明に書かれてありました。(p.37)

 これを見た大村先生は、びっくりしました。大村先生が少年時代に見ていた母親の日誌を書く姿からは、想像もできないようなちみつな内容だったからです。
 大村先生は「非常に感銘を受けました」と語っています。そして研究者になってからは、母親の研究熱心だった取り組みが、まるで自身に乗り移ったかのように、何ごとにも熱心にやることが多くなったのです。(p.38)

 

 

【大村先生のお父さん】
 智少年が中学生のころでした。部屋の片付けをしていたとき見慣れない段ボール箱を見つけて開けてみました。すると30冊以上の「高等講義録」が出てきました。それは父親が通信教育で使った教科書とノート類でした。忙しい農業をやりながら、父親は寸暇を惜しんで勉強していたのです。そのことを初めて知った智少年は感動し、怠けて遊んでいた自分を恥入りました。(p.46)
 こういうご両親の下で育っているから、大村先生の兄弟姉妹は、当時としては珍しいく、全員が大学へ進学した高学歴一家になった。

 

 

【初恋相手に贈ったもの】
 このころ、初恋も人並みにしました、ひそかに思ってた女生徒に「阿修羅像」の写真を贈ったこともありました。(p.49)
 奈良の興福寺にある手6本の阿修羅像
 大村先生には、阿修羅像はすばらしい画像に見えたのですが、もらった女生徒はびっくりしたかもしれません。初恋は不発に終わってしまいました。(p.50)
 内容と結末に笑ってしまうけれど、「阿修羅像」に惹かれる人は少なくないだろう。
 チャンちゃんも歴史の教科書で見た阿修羅像のことはず~と気にかかっていて、後々、萩尾望都のマンガに描かれていた阿修羅で思い出しつつ、『悲しき阿修羅』などを読み、たいそう慰撫されていたものである。
   《参照》  『百億の昼と千億の夜』萩尾望都(秋田書店)
           【輪転王と阿修羅王】
           【阿修羅王の出自】
 阿修羅のもとはアシュターであると、下記リンクに書かれているけれど、そのはずだと思っている。研究を通じて多くの人びとを救っている大村先生には実にふさわしい阿修羅像である。
   《参照》  『異星人が教えてくれた日本の近未来』中丸薫×秋山眞人(学研)《前編》
           【アシュター・コマンド】

 

 

【韮崎高校時代】
 1951年4月、智少年は山梨県立韮崎高校に進学しました。・・・中略・・・。
 入学後、すぐにサッカー部に入りました。
中田英寿 さんらも卒業生である韮崎高校サッカー部は県内でもよく知られた強豪であり、そこで活躍してみようと思ったからです。(p.50)
 智少年は、勉強なんかよりスポーツに打ち込む、スポーツ万能の極めて健全な少年だった。
 ところが、智少年をかわいがってくれたおばあちゃんが、大反対するのです。
「サッカーだけはやめてほしい」(p.51)
 おばあちゃんには、サッカーで全国優勝した甥がいたのだけれど、その甥が結核でなくなってしまっていたのだという。それが強烈なトラウマになっていたらしい。
「人の役にたつことをしなさい」と言われて育てられたのです。そのおばあちゃんがあまりに真剣に反対するので、智少年はとうとうサッカーをすることをあきらめてしまいました。(p.52)
 で、その後、どうしたかというと、卓球部とスキー部に入って大活躍した。

 

 

【山梨大学時代】
 大学時代も高校時代に引き続いて、大村青年はスキーに熱中しました。自宅のある韮崎市から山梨大学までは、約15キロメートルあります。汽車で通学しているのですが、大村青年はトレーニングのために、自宅から大学まで走って通うこともありました。(p.65-66)
 弟さんが同じ大学に進学すると、電車の弟に鞄を持たせ、自分は走って通学していた!という。
 昔の人々って、歩きが基本でみんな健脚だったのだろうけれど、毎日15キロ走って通学するって、ウルトラ凄いですよ。ちなみに大村先生は1940年生まれ。
 スキーは高校3年の時から山梨大学卒業まで、山梨県内で5連覇したという。

 

 

【墨田工業高校での経験】
 
山梨大学を卒業した年に山梨で教員採用がなかったので、大村先生は、東京都内の墨田工業高校で先生をしていた。そこで、卓球部の顧問になることを要請されて指導することになった。
「おれに勝てるやつが3人いれば、東京都の大会で優勝間違いなしだぞ」 (p.79)
 生徒たちはめきめき腕を上げ、実際に準優勝したのだという。
 これには大村先生自身もびっくりしました。そして、人間は指導ひとつでどんどん向上していくことを現実に体験し、その後の大村先生の人生でも大きな意味を持つようになるのです。(p.79)
 後に、北里研究所で、後進の研究者を育てる上で、役立つ経験だったらしい。
 具体的には、研究所の助手として入って来た高卒の高橋洋子さんを博士にまで育てた。
 隅田工業高校で、気づきを得たのは、指導法だけではない。

 

 

【研究生活のリスタート】
 隅田工業高校の夜間部に通学してくる生徒たちは、昼間働き夜こうして必死に勉強に取り組んでいます。そのとき大村先生は、自分はもっと何かをしなければすまないという気持ちになりました。この子たちに恥じないように、自分ももっと勉強しなければならないと思ったのです。(p.81)
 大村先生に、研究生活のリスタートを決意させたのは、指や服に油をにじませた状態で夜間部に通う学生たちだった。
 そのとき母親が日記の表紙の裏に書いていた「教師たる資格は、自分自身が進歩していることである」という言葉も思い出していました。・・・中略・・・。大村先生が何か書くことを求められたときには「万変に処するに一敬を主とす」という古くから伝わっている詩の一節をよく引用します。分かりやすい言葉にすると「自分の部下であろうと上司であろうと、誰もが自分の先生であると思うことが大事だ」という意味です。(p.99)
 大村先生は、隅田工業高校の教師をしながら、給料が入ると、一か月の食費は、即席ラーメン1箱(p.84)で、残りは文献を読むために必要なドイツ語を習うための塾と、東京理科大学の授業料にあてて、週末は寝袋を大学に持ち込んで泊まり込みで研究をしていたという。で、東京理科大学の大学院を修了した。
 そして、山梨大学で研究助手になったけれど、やる気があるとは思えない教員たちや、最新式ではない研究装置という状態もあり、2年後に、北里研究所に移ることにした。

 


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