
個々の記述にこだわって読んでしまうと、タイトルの社会学からかなり外れたものになってしまうから、いつもの手前勝手な横道御随意な読書記録にならないよう、かなりセーブして書いておいた(つもり)。それにしては、えらく長い読書記録になってしまっているけど・・・。
14歳からの読者向け著作なので、書き出した中に、本文と違って、PC上で普通に漢字変換されてしまった漢字がそのまま残ってしまっているかもしれない。2008年11月初版。
14歳からの読者向け著作なので、書き出した中に、本文と違って、PC上で普通に漢字変換されてしまった漢字がそのまま残ってしまっているかもしれない。2008年11月初版。
【「みんな」≠「日本人」】
その原因の主要な部分は、国家公務員になったって「アメリカの下僕として働くことでしかない」という実態を知悉しているからなのだろうけれど、それ以外にも、「みんな」の意味する範囲が、「国」から「ボーダレスな世界」へと広がっているという若い世代の認識の変容は確かにあるだろう。
「グローバル化が進んで格差が広がったっていうけど、たかが日本の中での話でしょう。中国やインドが豊かになって、国と国の格差はむしろ縮まった。日本で貧乏ったって大した話じゃない。グローバル化は十分、公的な利益をもたらしているんですよ」
この公的を「みんなの」と置きかえればわかりやすい。さっき「みんな」という言葉が誰から誰までを指すのかイメージしにくくなっている、といった。この学生は、どうして「みんな」というくくりが「日本人」じゃなきゃいけないのか、といっているんだ。(p.11)
これを話しているのは、東大法学部の学生とあるけれど、東大生の就職希望先ナンバーワンは、エリート国家公務員ではなくなっていることは、だいぶ前から言われている。この公的を「みんなの」と置きかえればわかりやすい。さっき「みんな」という言葉が誰から誰までを指すのかイメージしにくくなっている、といった。この学生は、どうして「みんな」というくくりが「日本人」じゃなきゃいけないのか、といっているんだ。(p.11)
その原因の主要な部分は、国家公務員になったって「アメリカの下僕として働くことでしかない」という実態を知悉しているからなのだろうけれど、それ以外にも、「みんな」の意味する範囲が、「国」から「ボーダレスな世界」へと広がっているという若い世代の認識の変容は確かにあるだろう。
【「みんな」の範囲】
《参照》 『カタカムナ 言霊の超法則』 吉野信子 (徳間書店)
試しに環境問題の議論の最先端を紹介しておこう。ドイツから出てきた「環境ラディカリズム」がある。これは、人間視点(「人間が生きるために環境をどう守るべきか」)じゃなくて、環境視点(「環境が生きるために人間はどうするべきか」)に立つ考え方だ。
現在の地球人口は約60億。ある試算だと、6億に減らさないと地球環境を保全できない。アメリカの人間が1人死ねば、アフリカの人間50人分の資源が節約できる。だから、戦争やテロが起こって先進国から順番に人間が死んでいくのが、地球環境に優しいーーー。
おどろいたかな。でも、現実になされている議論だ。この議論での「われわれ(みんな)」は「日本人」や「人類」をこえて、「地球に生きとし生けるもの」までふくんでいる。「われわれ」の線引きがますます難しくなったいまの時代をよく表しているだろう。(p.14-15)
「みんな」の範囲が広がることで、“「日本人」の価値や個性や希少性や良さがすべて無くなってしまうのではないか”と危惧する人は少なくないと思うけれど、日本に秘められた本質的な叡智に照らして「みんな」という“言霊”を古代日本人が使っていた“カタカムナ”に則して“思念で解釈”すれば「光の核(となる重要なもの)」ということになるらしいから、大丈夫だろう。「光の核」は「愛の核」と言い変えてもいい。「みんな」の範囲が広がれば広がるほど本質に近づくとすら言える。超古代に生きていた日本人の意識は、宇宙をも含んで極めて広範囲に達していたのである。現在の地球人口は約60億。ある試算だと、6億に減らさないと地球環境を保全できない。アメリカの人間が1人死ねば、アフリカの人間50人分の資源が節約できる。だから、戦争やテロが起こって先進国から順番に人間が死んでいくのが、地球環境に優しいーーー。
おどろいたかな。でも、現実になされている議論だ。この議論での「われわれ(みんな)」は「日本人」や「人類」をこえて、「地球に生きとし生けるもの」までふくんでいる。「われわれ」の線引きがますます難しくなったいまの時代をよく表しているだろう。(p.14-15)
《参照》 『カタカムナ 言霊の超法則』 吉野信子 (徳間書店)
【「尊厳」には「多様性」も必要】
先にも書いたように、日本文化の本質は決して偏狭なものなどではないのだから、長らく国内で日本人であることすら考えることなく安住してこられた人々こそ、意識を変容させる態度は必要。その場合、下記のような国境外で活躍している若い世代の著作は、気づきや学びの端緒として参考になるかもしれない。
《参照》 『異国のヴィジョン』 北川智子 (新潮社)
自由だけじゃ、みんなが幸せになるのは無理だ。自由が別の人の自由をおしのけないようにルールを調整するのは大切だけど、それだけじゃ足りない。たとえば、社会には文化があって、自己主張が強い人が得をする文化の国もあれば、協調性が高い人が得をする文化の国もある。
宗教も文化の一種だ。キリスト教の国では・・・中略・・・イスラム教徒は生きにくい。イスラム教徒の国では・・・中略・・・キリスト教徒は生きにくい。みんな平等に権利をあたえても、社会ごとに誰が自由に生きやすいかが変わるんだ。
みんなが尊厳をいだいて生きられるようにするには、自由を尊重しよういうだけじゃ足りない。社会が一色の文化に染まっていれば、別の文化の人は生きにくくなる。どんなに「自由にしてもいいですよ」といわれても、自由を利用できるチャンスが限られてしまうからだ。
自由だけじゃみんなの尊厳が支えられない。そこで社会学では、みんなのーーより多くの人たちのーー尊厳を支えるには、「自由」と「多様性」の両方が必要だと考える。自由だけど、多数派や強い人たちの色に社会が染まり過ぎる。いろんな色が必要なんだ。(p.19)
日本は海洋という防波堤に守られて長らく単一な文化でやってこられた世界でも稀有な国であるけれど、交通技術の発達によって、防波堤が大層下がり、その稀有な文化が多文化の波に洗われやすい状況になっている。従来通りの文化的単一性の長短を無自覚のまま弁えないのであるなら、内的維持にも外的貢献にも共に障害となってしまう可能性があるだろう。宗教も文化の一種だ。キリスト教の国では・・・中略・・・イスラム教徒は生きにくい。イスラム教徒の国では・・・中略・・・キリスト教徒は生きにくい。みんな平等に権利をあたえても、社会ごとに誰が自由に生きやすいかが変わるんだ。
みんなが尊厳をいだいて生きられるようにするには、自由を尊重しよういうだけじゃ足りない。社会が一色の文化に染まっていれば、別の文化の人は生きにくくなる。どんなに「自由にしてもいいですよ」といわれても、自由を利用できるチャンスが限られてしまうからだ。
自由だけじゃみんなの尊厳が支えられない。そこで社会学では、みんなのーーより多くの人たちのーー尊厳を支えるには、「自由」と「多様性」の両方が必要だと考える。自由だけど、多数派や強い人たちの色に社会が染まり過ぎる。いろんな色が必要なんだ。(p.19)
先にも書いたように、日本文化の本質は決して偏狭なものなどではないのだから、長らく国内で日本人であることすら考えることなく安住してこられた人々こそ、意識を変容させる態度は必要。その場合、下記のような国境外で活躍している若い世代の著作は、気づきや学びの端緒として参考になるかもしれない。
《参照》 『異国のヴィジョン』 北川智子 (新潮社)
【承認】
学生時代に、仏典に関する著作を読んでいて、「期待しなければ、あなたは自由だ」という一文を読んで、本当の“自由”についての気付きを得たのであるけれど、この場合の“期待しない”は、まさに“他者から与えられる「承認」”である。
人から承認されたいから社会に生きているのではない。
人から承認されたいから社会貢献しようとするのではない。
承認されるかどうかは、単なる結果であって、他者から承認されなかったからと言って、無駄な人生だったとか、幸せな人生ではなかったなどという考え方は、人生に向かう態度としてオカシイだろう。著者のような考え方をするのは、社会学という知の枠組みに呪縛されたまま、本当の“自由”を見失っているからとしか思えない。
《参照》 『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
【外からの承認】
『荘子』にも、「虚にして往き、実にして帰る」という表現がある。仮に、帰った時に実を何も得ていないかのように見えたとしても、そんなのは限られたられた時間軸内で見ているからで、実のない人生なんて、誰がどう生きたって、ありはしないだろう。
《参照》 『無名』 沢木耕太郎 (幻冬舎)
【無名】
最初の東大生の話に戻ろう。・・・中略・・・。その先の目標を聞いたら「国連職員」だという。・・・中略・・・。
国連職員は1年のうち半分が休みで、移動はすべてファーストクラス。給料もすごくいい。そういうことを東大生の彼は知らなかったけれど、そうした実態を知らなくてもなぜなりたがるのかといえば、国連職員になれば、広く他者たちから「承認」を得られると思っているからだ。・・・中略・・・。
でも、「承認」はそんなに簡単に得られない。「これさえあれば尊厳OK!」なんて魔法はないんだ。他者たちを前にした「試行錯誤」で少しづつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚を与えてくれる。それが力となって君はもっと広い世界に踏み出せる。
競争を勝ちぬいて「一流」大学や「一流」企業に入っても、会社を興して成功して金持ちになっても、自分の人生が「承認」から見放されているのであれば、いずれ君はさびしく死んでいく人間であることに気づかされるだろう。それが果たして幸せな人生だろうか。(p.31-32)
この記述以降、「承認」という言葉がキーワードのように、本書内で度々出てくるのだけれど、チャンちゃん的には非常に違和感がある。“他者から与えられる「承認」が、どうした” と思ってしまうのである。国連職員は1年のうち半分が休みで、移動はすべてファーストクラス。給料もすごくいい。そういうことを東大生の彼は知らなかったけれど、そうした実態を知らなくてもなぜなりたがるのかといえば、国連職員になれば、広く他者たちから「承認」を得られると思っているからだ。・・・中略・・・。
でも、「承認」はそんなに簡単に得られない。「これさえあれば尊厳OK!」なんて魔法はないんだ。他者たちを前にした「試行錯誤」で少しづつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚を与えてくれる。それが力となって君はもっと広い世界に踏み出せる。
競争を勝ちぬいて「一流」大学や「一流」企業に入っても、会社を興して成功して金持ちになっても、自分の人生が「承認」から見放されているのであれば、いずれ君はさびしく死んでいく人間であることに気づかされるだろう。それが果たして幸せな人生だろうか。(p.31-32)
学生時代に、仏典に関する著作を読んでいて、「期待しなければ、あなたは自由だ」という一文を読んで、本当の“自由”についての気付きを得たのであるけれど、この場合の“期待しない”は、まさに“他者から与えられる「承認」”である。
人から承認されたいから社会に生きているのではない。
人から承認されたいから社会貢献しようとするのではない。
承認されるかどうかは、単なる結果であって、他者から承認されなかったからと言って、無駄な人生だったとか、幸せな人生ではなかったなどという考え方は、人生に向かう態度としてオカシイだろう。著者のような考え方をするのは、社会学という知の枠組みに呪縛されたまま、本当の“自由”を見失っているからとしか思えない。
《参照》 『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《前編》
【外からの承認】
『荘子』にも、「虚にして往き、実にして帰る」という表現がある。仮に、帰った時に実を何も得ていないかのように見えたとしても、そんなのは限られたられた時間軸内で見ているからで、実のない人生なんて、誰がどう生きたって、ありはしないだろう。
《参照》 『無名』 沢木耕太郎 (幻冬舎)
【無名】
【「行為功利主義」と「規則功利主義」】
《参照》 『探そう!ニッポン人の忘れもの』 フジテレビ (扶桑社)
【急行電車の車掌さん】
《参照》 『探そう!ニッポン人の忘れもの』 フジテレビ (扶桑社)
【「規制・規則・法律には絶対に従うべき」と思い込む愚かさ】
学問の世界には「行為功利主義」と「規則功利主義」という言葉がある。「どんな『行為』をすれば、人が幸せになる(=功利)か」と考えるのが「行為功利主義」。「どんな『規則』が、人々を幸せにするのか」と考えるのが「規則功利主義」。この2つはしばしば対立する。(p.43)
下記リンクに、電車や都電やバスでの例を書き出しておいたけれど、日本社会は、臨機応変な「行為功利主義」から、融通の利かない「規則功利主義」へと傾斜していっている。《参照》 『探そう!ニッポン人の忘れもの』 フジテレビ (扶桑社)
【急行電車の車掌さん】
いい教育ってなんだろう。2つの考え方がある。1つは、自分の子どもが幸せになるにはどんな教育が必要か、というもの。もう1つは、いい社会になるためにはどんな教育が必要か、というもの。ここでも「行為功利主義」と「規則功利主義」の対立に似たものがある。
親は前者の立場に立つのが普通だ。政治家や役人は後者の立場に立つのが当然だ。 (p.45)
教育の場では、モンスターペアレントの突き上げによって、先生はこの2つの立場の違いを実感しているだろうけれど、行政や警察などの公務員は、実感すらしていない人々が少なくないだろう。「管理が仕事です」「ルールに従わなければ罰則です」の一言で片付けるのである。知性と人間性に乏しい人間ほど、敢然と「規則功利主義」を貫徹させるから質が悪い。既得権者側が手前勝手に定めた規則を貫徹させるということは、「公権力による暴力」以外の何ものでもないという自覚すらないのである。親は前者の立場に立つのが普通だ。政治家や役人は後者の立場に立つのが当然だ。 (p.45)
《参照》 『探そう!ニッポン人の忘れもの』 フジテレビ (扶桑社)
【「規制・規則・法律には絶対に従うべき」と思い込む愚かさ】
【パンピー】
あれがいいかこれがいいかと毎日一喜一憂するパンピーには無理だーー。 (p.45)
「パンピー」という単語の意味が分からずにネットで調べたら、「一般ピープル」の略ということが分かった。「ミーハー」に近いとも。
【「管理」からは生まれないもの】
昨夜、たまたまワールドカップで一躍時の人になっている五郎丸歩選手が出演していたスポーツ番組で、早稲田大学ラグビー部時代に出会った2人の指導法の異なる監督のことを話していた。
「リーダシップの強い指揮官の下では楽ですね。何も考えなくて従っていればいいですから」、「自分たちで考えさせる指揮官の場合は、自分が成長します」と言っていた。著者の実体験に符合する。
僕の卒業した男子校は、いまも昔も校則がない。ただあまりにメチャクチャになって3つのルールができた。1つが「校内でのマージャン禁止」。2つ目が「授業中の出前禁止」。3つ目が「校内で鉄下駄を履かないこと」。ギャグみたいだけど本当の話なんだ。
授業中「へーい毎度」とラーメン屋のおじさんがやってくるのもたびたびだった。当時はやっていた『柔道一直線』に影響された連中が、鉄ゲタをはいてきて廊下がボロボロになった。だからそういうルールが出来たわけだけれど、それくらいメチャクチャだったんだ。
ガンコな理事長や教師という権力が、ぼくたちを縛りつけている。だったら戦ってそれを取りのぞけばいいーー。実際戦って、ぼくたちは勝った。じゃあそれで学校はよくなったのか? ぼくは荒れ果てた風景を目の前にして、マジで頭をかかえてしまったんだ。 (p.53)
ここまでの記述だけでも、社会学的に非常に重要なことが分かるし、読み物としても面白いけれど、さらにいいのは、これに継続する下記の記述である。
授業中「へーい毎度」とラーメン屋のおじさんがやってくるのもたびたびだった。当時はやっていた『柔道一直線』に影響された連中が、鉄ゲタをはいてきて廊下がボロボロになった。だからそういうルールが出来たわけだけれど、それくらいメチャクチャだったんだ。
ガンコな理事長や教師という権力が、ぼくたちを縛りつけている。だったら戦ってそれを取りのぞけばいいーー。実際戦って、ぼくたちは勝った。じゃあそれで学校はよくなったのか? ぼくは荒れ果てた風景を目の前にして、マジで頭をかかえてしまったんだ。 (p.53)
一番ひどかったのが、ぼくたちの学年だった。ぼくたちの大学受験について、教師たちは「こいつらはもうダメだ」ってあきらめていた。ところがどっこい。いざフタをあけると、まともに授業を受けなかったぼくたちが、いまでも歴代1位の進学実績を残したんだ。(p.53)
要は、経験から学んで、自分たちでマジに考え行動したということだろう。「規則に従っているだけのいい子」の社会(学校)からは傑出した人材など生まれるわけがないのである。昨夜、たまたまワールドカップで一躍時の人になっている五郎丸歩選手が出演していたスポーツ番組で、早稲田大学ラグビー部時代に出会った2人の指導法の異なる監督のことを話していた。
「リーダシップの強い指揮官の下では楽ですね。何も考えなくて従っていればいいですから」、「自分たちで考えさせる指揮官の場合は、自分が成長します」と言っていた。著者の実体験に符合する。
【現実の進展度合い】
で、近年YouTubeに、アニメ系の動画がやけに増えていることの訳がよく分かった。
しかし、社会学者は、なぜこのような変化が起こっているのかを説明しない。
「仮想=非現実」という捉え方をしている人は、「夢=非現実」とも考えているのだろうけれど、夢は「非現実」ではなく、「もう一つの現実」である。スピリチュアルな感覚を体験したことのある人々や、体外離脱に関する著作に馴染んでいる人々は、そこのところをよく分かっている。
《参照》 『体をぬけだし空を飛べ!』 ダン・グリーンバーグ (メディアファクトリー)
《参照》 『私はアセンションした惑星から来た』 オムネク・オネク (徳間書店) 《前編》
【すべての答えを内包する世界での体験】
上記にリンクしたようなアセンション系の著作に馴染んでいる人々は、人類の進化は、物質過程の生命形態に留まるものではないことを理解しているはずであるけれど、宇宙の周期律的変動によって、地球が特異な帯域に入り周波数が上がれば、自ずと物質から非物質へと漸次遷移して行くものなのだから、その前段階では、人々は意識が全てであることを普通に知るようになるのである。
どっちも「アリ」の感覚になっていると言うことは、地球の周波数上昇によって、意識の進化が順調に進展しているということだろう。
《参照》 『私はアセンションした惑星から来た』 オムネク・オネク (徳間書店) 《後編》
【惑星地球は周波数上昇による変容を迎えている】
実質的な物事の変化に先行するのは、常に意識なのだから、意識の変化は、社会の変化を予測する上で非常に重要な因子である。
《参照》 『シリウスの太陽』 太日晃 (明窓出版) 《後編》
【フルコンシャス】
男の子の好みは「黒ギャル派」(ガングロ派)とか「白ギャル派」(黒髪に白い肌が好き派)とかあって、そういういろんな好みの中に、「ゲームの中の子が好き派」がいる感じになった。そのころ、大学院で教えていた学生と話していて、目からウロコが落ちた。
(ぼく)「お前ら、いつまでもゲームばっかやってないでさ。カノジョ作ったら?」(学生)「先生、そりゃまたずいぶん古い考えですね。ぼくらにいわせれば、現実の女がゲームの中と同じようにふるまってくれれば、相手してやってもいいって感じですよ」
この学生は「現実の女の子が相手にしないダメ男」という批判は見当違いだという。「現実の女が相手にして欲しけりゃ、名前を変えてコスプレでもして、そっちがゲームに近づけよ」みたいな感じだと。ぼくは「なるほど、現実はそこまで進んでいるのか」と思った。(p.63-64)
この本が書かれたのは、今から7年前の2008年11月だから、今これを読んでビックリしつつ書き出しているチャンちゃんは、とんでもなく若者の現実認識に後れを取っていたことになる。(ぼく)「お前ら、いつまでもゲームばっかやってないでさ。カノジョ作ったら?」(学生)「先生、そりゃまたずいぶん古い考えですね。ぼくらにいわせれば、現実の女がゲームの中と同じようにふるまってくれれば、相手してやってもいいって感じですよ」
この学生は「現実の女の子が相手にしないダメ男」という批判は見当違いだという。「現実の女が相手にして欲しけりゃ、名前を変えてコスプレでもして、そっちがゲームに近づけよ」みたいな感じだと。ぼくは「なるほど、現実はそこまで進んでいるのか」と思った。(p.63-64)
で、近年YouTubeに、アニメ系の動画がやけに増えていることの訳がよく分かった。
「アキバ系」と「ナンパ系」の違いは、「生身の感覚でゲームを生きている」のか、「ゲームの感覚で生身を生きているのか」の違いになった。どっちが正しいか。どっちもどっちでしょ。ひとついえるのは、社会の変化がどっちの感覚も「アリ」にしたということだ。(p.67)
今の日本社会は、リアル(生身の感覚:現実)もバーチャル(ゲームの感覚:仮想)もどっちも「アリ」になっている、と言っている。しかし、社会学者は、なぜこのような変化が起こっているのかを説明しない。
「仮想=非現実」という捉え方をしている人は、「夢=非現実」とも考えているのだろうけれど、夢は「非現実」ではなく、「もう一つの現実」である。スピリチュアルな感覚を体験したことのある人々や、体外離脱に関する著作に馴染んでいる人々は、そこのところをよく分かっている。
《参照》 『体をぬけだし空を飛べ!』 ダン・グリーンバーグ (メディアファクトリー)
《参照》 『私はアセンションした惑星から来た』 オムネク・オネク (徳間書店) 《前編》
【すべての答えを内包する世界での体験】
上記にリンクしたようなアセンション系の著作に馴染んでいる人々は、人類の進化は、物質過程の生命形態に留まるものではないことを理解しているはずであるけれど、宇宙の周期律的変動によって、地球が特異な帯域に入り周波数が上がれば、自ずと物質から非物質へと漸次遷移して行くものなのだから、その前段階では、人々は意識が全てであることを普通に知るようになるのである。
どっちも「アリ」の感覚になっていると言うことは、地球の周波数上昇によって、意識の進化が順調に進展しているということだろう。
《参照》 『私はアセンションした惑星から来た』 オムネク・オネク (徳間書店) 《後編》
【惑星地球は周波数上昇による変容を迎えている】
実質的な物事の変化に先行するのは、常に意識なのだから、意識の変化は、社会の変化を予測する上で非常に重要な因子である。
《参照》 『シリウスの太陽』 太日晃 (明窓出版) 《後編》
【フルコンシャス】
【バーチャルな性愛】
《参照》 『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《中編》
【永遠性の獲得】
従来通りの生命観に捉われたまま、どのような政治的対策を講じようと、または、人口削減計画によって強制的に減らそうとしなくても、地球の人口は減ってゆくだろう。周波数上昇によって地球という惑星自体が“場”を変容させるからである。
社会の変化がバーチャルな性愛を「アリ」にした。けれど、別の問題が出てきた。「それでぼくたちの社会は回っていくのか」だ。・・・中略・・・ぼくたちの社会は子孫を残しにくくなるだろう。(p.66)
今の社会では、バーチャルルな性愛が、「行為功利主義」の観点から「アリ」になった。「本人がいいといっているんだから、それでいいじゃん」というわけだ。でも、「規則功利主義」でいえば、「それでみんな幸せになれるのか?」という問題が出てくる。 (p.67)
物質過程(三次元)の生命形態特有の二元性(男女)による生命形態維持に囚われ、これを前提にしている限り、エポックな時代に突入した人類がしかるべき進化の方向に則しているからこそ社会学的な変容が起きているのだ、ということなど思いもしないのだろうから、このような解釈上の行き詰まりになってしまう。今の社会では、バーチャルルな性愛が、「行為功利主義」の観点から「アリ」になった。「本人がいいといっているんだから、それでいいじゃん」というわけだ。でも、「規則功利主義」でいえば、「それでみんな幸せになれるのか?」という問題が出てくる。 (p.67)
《参照》 『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《中編》
【永遠性の獲得】
従来通りの生命観に捉われたまま、どのような政治的対策を講じようと、または、人口削減計画によって強制的に減らそうとしなくても、地球の人口は減ってゆくだろう。周波数上昇によって地球という惑星自体が“場”を変容させるからである。
【ケータイ小説】
『蛇にピアス』に対するオッサン世代の本音は、チャンちゃんの酷評と同じはずだけれど、「関係」が希薄化した人生に染まっている若者世代にとっては、『蛇にピアス』のような作品だからこそ共感しえたということか。なんちゅうか、ウンザリするような気分になるけれど、次に書くべき言葉が出てこない。
『恋空』(美嘉・著)というケータイ小説がある。去年(2007年)映画になった。ぼくが見たときも周りの女子高生たちが泣いていた。・・・中略・・・。
ぼくは映画館で「そうか」と思った。彼女たちは、現実の人間関係に期待していないから、「レイプ」とか「妊娠」とか「流産」とか「癌で死ぬ」とか、そういう現実にはめったにない「事件」に反応して泣くんだ――と。
濃密な人間関係を経験したことがないから、濃密な人間関係がえがかれた古いタイプの映画や小説にふれると、彼女たちは「自分がはじかれている」と思ってしまう。そんな彼女たちが望むのは、「ディープな関係」ではなく、「ディープな事件」を並べた作品だ。
それがケータイ小説だ。『恋空』ではレイプされてもカレシがだきしめれば「一瞬で」回復し、セックスすれば「一瞬で」妊娠し、女につき飛ばされれば「一瞬で」流産し、新しい男と「一瞬で」くっつき、分かれたカレシが癌とわかれば「一瞬で」元のさやに収まる。
そこでは「関係」でなく「事件」だけが問題だ。だから登場人物は入れ替え可能な「記号」にすぎない。相手が誰で、どんな「関係」にあろうが、「事件」がありさえすれば話が成り立つ。ひさんな事件が起こっても「記号」は「記号」。だからすぐに復活できるんだ。(p.81-83)
今これを読みつつ、『蛇にピアス』 金原ひとみ (集英社) という小説の内容が『恋空』に似ていることを思い出していた。ぼくは映画館で「そうか」と思った。彼女たちは、現実の人間関係に期待していないから、「レイプ」とか「妊娠」とか「流産」とか「癌で死ぬ」とか、そういう現実にはめったにない「事件」に反応して泣くんだ――と。
濃密な人間関係を経験したことがないから、濃密な人間関係がえがかれた古いタイプの映画や小説にふれると、彼女たちは「自分がはじかれている」と思ってしまう。そんな彼女たちが望むのは、「ディープな関係」ではなく、「ディープな事件」を並べた作品だ。
それがケータイ小説だ。『恋空』ではレイプされてもカレシがだきしめれば「一瞬で」回復し、セックスすれば「一瞬で」妊娠し、女につき飛ばされれば「一瞬で」流産し、新しい男と「一瞬で」くっつき、分かれたカレシが癌とわかれば「一瞬で」元のさやに収まる。
そこでは「関係」でなく「事件」だけが問題だ。だから登場人物は入れ替え可能な「記号」にすぎない。相手が誰で、どんな「関係」にあろうが、「事件」がありさえすれば話が成り立つ。ひさんな事件が起こっても「記号」は「記号」。だからすぐに復活できるんだ。(p.81-83)
『蛇にピアス』に対するオッサン世代の本音は、チャンちゃんの酷評と同じはずだけれど、「関係」が希薄化した人生に染まっている若者世代にとっては、『蛇にピアス』のような作品だからこそ共感しえたということか。なんちゅうか、ウンザリするような気分になるけれど、次に書くべき言葉が出てこない。
【ナンパ師へのルート】
《参照》 『愛』 柳父章 (三省堂)
【トルバドゥールの「愛」のかたち】
ついでに書いておくなら、死を意識するほどに落ち込むのは、セックスを通じて相手からさまざまなカルマを受け取って自らの霊性を汚し過ぎたからである。だから、社会学のドンズマリを突き破って、新たな地平に出るために必要な清らかなスピリチュアル世界に参入できない。
《参照》 『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《後編》
【天性と霊性を損なう乱脈なセックス】
金髪にブルー・コンタクトを入れたナンパ・サイボーグのぼくは、絶望していた。ところがぼく以上に経験豊富な女性に出会い、奇跡的に「治療」された。くわしくは言えないけれど、どん底に落ちて、死を意識したところからはい上がってみたら、感情が回復していた。
のちにナンパ師たちをたくさん取材して、「大失恋から回復しようとして結局ナンパ師になってしまう」というルートが、ありふれたものであることがわかった。だから、ぼくの経験は、ありふれている。ただ、偶然が重なって回復できたことだけは、奇跡だった。(p.86)
性愛を経た上での大失恋でなければナンパ師にはならないだろう。シラノ・ド・ベルジュラックのようなプラトニックな恋愛での失恋であったのなら、決してナンパ師になどならない。のちにナンパ師たちをたくさん取材して、「大失恋から回復しようとして結局ナンパ師になってしまう」というルートが、ありふれたものであることがわかった。だから、ぼくの経験は、ありふれている。ただ、偶然が重なって回復できたことだけは、奇跡だった。(p.86)
《参照》 『愛』 柳父章 (三省堂)
【トルバドゥールの「愛」のかたち】
ついでに書いておくなら、死を意識するほどに落ち込むのは、セックスを通じて相手からさまざまなカルマを受け取って自らの霊性を汚し過ぎたからである。だから、社会学のドンズマリを突き破って、新たな地平に出るために必要な清らかなスピリチュアル世界に参入できない。
《参照》 『ガイアの法則[Ⅱ]』 千賀一生 (ヒカルランド) 《後編》
【天性と霊性を損なう乱脈なセックス】
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