《前編》 より
 

 

【あなたがホンモノなのかしら】
 贋物には楽天性というものはない。常にホンモノよりも深刻でマジメな顔をしているものなのである。いつか銀座裏の酒場に坂口安吾のニセモノが女を口説いて成功して、他日無能なるホンモノが現われたところ、女どもは疑わしげに私を眺めて、あなたがホンモノなのかしら、ニセモノはもっとマジメな深刻な人だったわよ、と言った。(123)
 坂口安吾については『堕落論』が一番有名だから、読みもしない人たちは、「暗く深刻な人」だと安易に推測し思い込むんだろう。坂口安吾のエッセイはどれも決して暗くなんかない。
 むしろ同時代の作家たちの作品を評して、「苦悩を軽減しうる自己救済の文章をくふうした」とドライに底を露見させてしまっている。自己救済的なセンチメンタリズムの世界になんか興味はないのである。
 坂口安吾の『堕落論』には、「堕ちることは不可避であって、堕ちるだけ堕ちてしまえば、あとは上がるだけだろう」的な、人間や世界に対す信頼が伏在している。

 

 

【女大学の猛訓練】
 日本の女を女房に、パリジャンヌを妾に、という世界的な説がある由、しかし、悲しい日本の女よ、彼女らは世界一の女房であっても、まさに男がパリジャンヌを必要とする女房だ。日本人の蓄妾癖は野蛮人の証拠だなどとはマッカな偽り、日本の女房の型、女大学の猛訓練は要するに亭主をして女房に満足させず、妾をつくらずにはいられなくなる性格を与えるためにシシと勉強しているようなものだ。(p.156)
 この記述、可笑しくて笑ってしまった。蓄妾癖には「ちくしょうへき」とルビがふられているけれど、畜生癖を連想させるから余計におかしい。
 現在のオバサンたちが女大学の猛訓練を受けているわけなどないけれど、モノが溢れオバサンたちが元気な現在は、当時とは別な力が働いて、男たちの蓄妾癖を再発させているんじゃないだろうかなんて思えてもくる。
   《参照》   『女のいない世の中なんて』 薮田貫 (フォーラム・A)
             【女大学】

 

 

【悪妻論】
 上記も下記も悪妻論の中の記述。
 女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、さような良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻なりと断ずる。
 選択したり、清掃したり、着物をぬったり、飯を炊いたり、労働こそ神聖なりとアッパレ丈夫の心掛け。けれども、遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまってる。多情淫奔ではいささか迷惑するけれども、迷惑、不安、懊悩、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいい。
 ・・・(中略)・・・ 。人生の不幸、哀しみ、苦しみというものは厭悪、厭離すべきものときめこんで疑ぐることも知らぬ魂の方が不可解だ。悲しみ、苦しみは人生の花だ。(p.156-157)
 こういう記述って、前世紀(20世紀)の遺物だと思っている。悲しみや苦しみを人生の花と咀嚼することはそれなりに可能だけれど、それで悪妻論まで成してしまうのは、やっぱりヘンでしょう、と思ってしまう。そもそも、悲しみや苦しみ自体に良質な価値があるのかどうか、はなはだ疑問である。
 現在は、未来からこの地上に転生してきている魂たちが少なくない。地上での学びの結果から、全ての人の魂を並列に置くのには無理があることを当たり前に認識するようになった魂たちもまた少なくない。そんな魂たちにとって、この考え方は、完全に前世紀の遺物である。

 

 

【日本語の多様性は・・】
 言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に則して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにはきわめて自在豊饒な心情的沃野を感じさせて頼もしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持ちになっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきはふ国に、文化の借り衣装をしているようなものだ。(p.163)
 坂口安吾は、コトダマは原始の状態であり、文化とは進歩の過程で生じるものと考えている。しかし、コトダマもまた、それが成立した時点は進歩の過程で成立した成果だった考えることはできるだろう。現在から見て初発状態だから劣った原始というのならば、手前勝って千万な尺度であって意味がないだろう。
 チャンちゃんは、坂口安吾が書いている日本語の多様性が生む性質を積極的に評価して、下記の日本文化講座を書いた。日本語は多様で雰囲気的であるからこそ、日本語は芸術となるのである。
   《参照》   日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <後編>
            ■ 音と質の日本語 vs 意味と量の外国語 ■
            ○《繊細さ》 それは日本語の中に生きている横の秘儀である○

 また、日本語は繊細で多様な言葉を持つから、「観察の本質的な態度がおろそかになる」というのは、一般的に“極めるという性”の淡泊な人にとってのことであろうし、“極めるという性”において日本人の右に出る民族はいないはずである。原子物理学の世界で、素粒子の属性をとらえてフレイバーとかチャームという用語で表現せざるを得なくなっているように、あらゆる事象は、極める過程で物性から霊性へと変移してゆくものなのである。つまり、雰囲気的であるということは、日本語が極める性質を内包した高度な言語だという証拠なのである。日本と日本文化と日本的霊性の根源である日本語をみくびるな。
   《参照》   『古代日本人・心の宇宙』  中西進  日本放送出版協会  《後編》
           【零に向かっての永遠 : 道を究める日本人とギリシャの哲学者ゼノン】

 

 

【太宰と芥川を死に追いつめたもの】
 ブランデン氏は、日本の文学者どもと違って眼識ある人である。太宰の死にふれて(時事新報)文学者がメランコリーだけで死ぬのは例が少ない、たいがい虚弱から追いつめられるもので、太宰の場合も肺病が一因ではないか、という説であった。
 芥川も、そうだ。支那で感染した梅毒が、貴族趣味のこの人をふるえあがらせたことが思いやられる。
 芥川や、太宰の苦悩に、もはや梅毒や肺病からの圧迫が慢性となって、無自覚になっていたとしても、自殺へのコースをひらいた圧力の大きなものが、彼らの虚弱であったことはほんとうだと私は思う。(p.226)
 太宰を死に追いつめた一因に肺病があったのかどうか知らないけれど、太宰の作品によって、自殺に誘導されてしまった若者達が余りにもたくさんいたのは確実だろう。あんなに暗い文学作品を残しちゃって、太宰さん霊界で大いに後悔しているんじゃないだろうか。
 これからの地球は、光が溢れる時代に突入して行く。だから太宰なんてこれからは全然流行りっこない。そうであってもなくても、若者は(落ち込んでいる人は特に)読まない方がいい。冥界行きの引力に引き込まれてしまうからね。

 

 

<了>