イメージ 1

 国際社会の現実を、となり町どうしの戦争という状況で語っている。読み終わって作者のプロフィールを見たら、1970年生まれとあるから、30代前半でこの小説を書いたということが分かる。 “だろうな” という感じである。2005年1月初版。

 

 

【戦争なら殺人ではない】
「めんどうくさいんだね」
「そうですね、でも、そうしたキチンとした手続きを踏んで行わないと、戦争ではなく、殺人としての扱いになってしまいますから」
「じゃあ、戦争の殺人は殺人として扱われないんだ」
 僕は香西さんに尋ねるでもなく、言葉を大気の中に押し出した。「命の尊さ」というものが、戦争という条件をかぶせられることによって、いとも簡単に切り替えられるという仕組みがうまく分からなかった。「人の死」はいつ、いかなる時であっても「人の死」であり、「殺人」はどんなに言い換えようとも「殺人」でしかないのではないか。(p.141-142)
 「一人殺せば殺人、千人殺せば英雄」っていう戦争に関するブラック・ジョークがあるけれど、この手の不条理は、視点の移動によって表現可能になる。
 文学は “人間の尊厳の側” から「人の死」や「殺人」として考えようとするけれど、戦争を企画する者たちは “国益ないし企業益の側” から単に数字として合理的に処理するのみのである。

 

 

【戦争計画】
「そうですね、予算の費目については公開されていますから。それはとなり町も同様で、戦争計画自体は確かとなり町の方が先にあったと思います、二つの町のどちらも戦争計画を立案したことに伴い、15年ほど前には、協力して戦争事業を遂行していこうという協定書が結ばれ、両町職員による定期的な勉強会も開催されていました」(p.147)
 いつどこで戦争や国際紛争を起こすかは、ロスチャイルドやロックフェラーなどによって構成される闇の権力によって計画通り行われてきたのである。かつて東西冷戦と言われた時代も同様。世界を対立図式の中におくために、西側・東側、右翼・左翼などのカウンターパートを常に計画的に世界中に根付かせ、中東、アフリカ、アジア諸地域に火種を絶やすことなく維持してきたのである。
  《参照》  『アメリカが隠し続ける金融危機の真実』ベンジャミン・フルフォード(青春出版社)
           【世界の大きな動き】~【ビルダーバーグ会議】

 しかし、近年の世界は、9・11ニューヨーク自作自演テロのように、インターネットによってそういった戦争の作為がバレバレになってきているし、戦争をせずとも経済発展してゆくことが可能であると分かっているから、賢明な世界の指導者たちは脱戦争の方向で世界を維持・発展させようとしている。
 この物語では、戦争が終結しこれに関わっていた戦争推進室などの課は解体してゆくという結末であるけれど、現実の世界には、戦争ビジネスで生活している軍産複合体に絡む人々が多くいるから簡単には解決しない。

 

 

【僕を中心とした世界においては・・・】
 確かに僕は、誰かを意志を持って殺しはしなかった。しかし僕を助けるために、確実にこの戦争で、佐々木さんという一つの命がなくなっている。僕はもしかしたら、そのことを一生知らないままに、無自覚に、イノセンスに、生涯を終えたかもしれないのだ。
 考えてみれば、日常というものは、そんなものではなかろうか。僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。
  ・・・(中略)・・・ 。
 たとえどんなに目を見開いても、見えないもの。それは「なかったこと」なのだ。それは現実逃避とも、責任転嫁とも違う。僕を中心とした世界の中においては、戦争は始まってもいなければ、終わってもいないのだ。(p.193-194)
 ”たとえどんなに目を見開いても、見えないもの。それは「なかったこと」” なのだろうか?
 そのとき見えなくても、後に知り得て見えてくる場合もある。
 知り得たその時その瞬間の “只今には過去も未来も織り込まれている。” 
 戦争は始まってもいなければ終わってもいないのではなく、始まりも終わりもなく続いているのである。
 責任を分担せよと言いたいのではない。
 宇宙における真実は、時空間ともにホログラム構造をしているということなのである。
 “僕を中心とした世界” が、“すべてでひとつである” という宇宙認識に至らぬ限り、戦争という不完全さの現われと、それを見えなかったがために認知し得ぬものと思える不完全さは、同根なのである。

 

 認識の枷が、救済なき文学の免罪符となっているのである。

 

 

<了>