《前編》 より

 

 

【イギリスと日本がそれぞれに支配した国々の戦後状況の違い】
寺島 : アジアの国々がイギリスを許してしまうのは、西洋支配に対するアジア的コンプレックスだと判断する人もいますが、そうではなく、僕は支配者がもつ力量だと思います。イギリスの旧植民地は、南アフリカを含めて、大英帝国が残していった法制度や文化やスポーツを叩きだすことなく、継承している。つまり、大英帝国がそれらを定着させながら、静かに引き下がって行ったんです。(p.114)
 これは、日本が支配した朝鮮や台湾との比較において記述されているのだけれど、 “支配者のもつ力量” というだけで言いきれるものではないように思えて仕方がない。
 東アジアにおいては、戦後世界覇権を握ったアメリカによる 「分断と統治」 政策が強烈に機能していたのであり、それに比べたら旧イギリス植民地諸国は、東西冷戦下にあったとはいえ 「分断と統治」 政策の影響力はそれほど強くなかったはずである。
また、アジア的コンプレックスという表現の裏側には、やはり英語の自国語への翻訳語の完了という言語インフラを整備できなかった国々という事実がある。それを戦前にほぼ完了していた日本のような国は、戦前戦後を通じて未だにないはずである。
   《参照》   『日本人はなぜ国際人になれないのか』 榊原英資 (東洋経済新報社) 《前編》
             【翻訳語を持たないアジア諸国との比較で見える翻訳文化の蹉跌】
 大英帝国はとんでもなく悪辣なことをしてきたけれど、柔構造の部分を持っているから、どこかで敬愛されているんです。これが歴史の教訓です。(p.132)
 こう書かれているけれど、私には “柔構造の部分” が明確に読みとれなかった。
 つまり日英の明確な差は分からないのである。米英の差は以下のように良く分かる。
 ここにイギリスとアメリカの外交の差があります。アメリカは最期は力で勝負を賭けて、解決するでしょう。イラク戦争にしてもそうですし、近年だけ見ても、多くの例が物語っています。イギリスはもっと巧みにやる。イギリスとアメリカの国際関係に対する構えの違いが見事に出てくる。(p.133)
 つまり、「力」 で支配するアメリカが戦後 「分断と統治」 策をもって東アジアに関与していたから、日本とイギリスの支配地域の戦後差が出たのである。

 

 

【戦後日本にとってのインド】
寺島 : インドのネルー首相は中立主義を掲げて、アジアの東西冷戦を持ち込むなという発想から、サンフランシスコ講和会議において日本に対して、あなたがたは西側陣営の一翼を占めるかたちで戦後復興していくのですか、と問うたわけです。わずか5~6年前の1945年まではアジア解放を掲げて奮闘していたではないですか、と。そして、もし日本に駐留しているすべての米軍が引き上げるならばインドは署名してもいいという条件を出して、結局サンフランシスコ講和条約に署名しませんでした。
 ところがそのインドが翌年、日本との単独講和に応じてくれる。これが、日本が戦後アジアに復帰していく大きなステップになっていく。また、1955年のバンドン会議に日本が参加して、アジアに復帰していく大きな伏線になっていく。インドというのは戦後の日本にとって、大変味わい深い役割を果たしてくれているんですね。(p.36-37)
 インド解放のために共に戦ったチャンドラ・ボースのことや、東京裁判に関するパール判事の意見について書かれているものを読むことは多いけれど、寺島さんのように、戦後日本に対するこのようなインドの態度に言及し我々に語ってくれる人はそれほどいない。戦後一貫して西側(アメリカ側)に寄りかかった偏知者としての言論人ばかりが幅を利かせてきたからである。
 戦後の当時、インドの意向に沿う政治家はもちろんいた。
寺島 : バンドン会議を前にして、1954年に吉田政権が倒れ、鳩山政権が成立していた。鳩山政権の外務大臣は重光葵でした。石橋湛山が鳩山一郎を支えるような形だったわけです。鳩山―石橋というラインの人たちは、対米自主外交路線です。アメリカからの自主外交と、ソ連との国交回復、中国との国交回復という、そういう戦略を胸に描いて、吉田外交からの脱却を図ろうとしていた。
佐高 : 残念ながら、鳩山―石橋外交のラインはきちんと継承されなかったし、その意味も汲みとられずに、自民党のなかでは傍流に追いやられてしまいましたね。(p.37-38)
 それから60年ほどの星霜を経て、民主党の鳩山由紀夫政権が、祖父である鳩山一郎政権の路線復活を志したけれど、アメリカとそのサイドの官僚たちによって無残に破壊されてしまった。しかしまだ完全に終わったわけではない。
 吉田茂首相の係累にある麻生太郎政権の後が、鳩山一郎首相の孫にあたる鳩山由紀夫政権だった。歴史は繰り返していたのである。また石橋湛山は山梨県出身であり、民主党政権の中枢に山梨県出身の議員がいたことも繰り返しである。

 

 

【クラーク博士と石橋湛山】
寺島 : 石橋湛山はクラーク博士の思想に共鳴し、彼を尊敬していました。なぜ尊敬していたのか。甲府中学の校長だった大島正健は、クラーク博士の直接の教えを受けた、札幌農学校の第一期生だったんです。石橋湛山は甲府中学で大島正健の薫陶を受けるわけです。(p.176)
 私は山梨県の出身だけれど、クラーク博士に連なる誇り高き人間山脈の実状など、小中高を通じて話してくれた先生など一人もいなかった。
 クラーク博士が札幌農学校の教壇に立っていたのはわずか8カ月です。つまり、一期生でも一年間も教わっていなかった。札幌農学校は、二期生以降、新渡戸稲造をはじめとして続々と偉大な人を排出しますが、二期生の人たちは、クラーク博士の顔を見たこともありませんでした。それでも、彼の教えは受け継がれていく。(p.176-178)
 山梨県でもっとも歴史のある農林高校に勤務する人から、「最近の校長なんて、退職後の自分の就職のことしか話していませんよ」 と聞いたことがあるし、実習中の教師が生徒に対して、暗にではなく明快に賄賂を要求するような発言をしていたのを直接聞いたこともある。山梨県の現在の教育は完全にウンコである。

 

 

<了>
 

  寺島実郎・著の読書記録

     『1900年への旅』

     『新しい世界観を求めて』

     『世界を知る力』

 

  佐高信・著の読書記録

     『新しい世界観を求めて』

     『トヨタの正体』

     『いやな時代こそ想像力を』