イメージ 1

 著者は、「フランダースの犬」 「母をたずねて三千里」 「トム・ソーヤの冒険」 といった世界名作アニメを手掛けてきたアニメーション映画プロデューサーさん。 仕事を通じてのことがいろいろ書かれている。アニメに関しては、それほど奥深い記述があったようには思えない。
 この本は、2010年1月初版だけれど、1988年から1990年にかけて企業内の機関誌 「隣人」 に掲載されたものが元になっていると、前書きに書かれている。

 

 

【テレビアニメ】
 連載マンガの人気におぶさったアニメ作りが多い中でも、アニメでしか表現し得ない手法とテクニックを駆使して完全に原作を超えた面白い作品も全くないわけではありません。これはスタッフに才能とオリジナリティがなければ不可能なことです。
 ついでにちょっと自慢させてもらえば、私たちがこれまで作り続けてきた名作アニメ 「フランダースの犬」 や 「赤毛のアン」 などの作品は、マンガ原作ではありませんが、元の原作以上の感動を日本の子供たちはおろか世界中の子供たちにあたえたという意味で、立派にオリジナルな作品といえるでしょう。(p.28)
 最近のテレビで度々放映している 「アニメ番組ベストテン」 によると、ナンバー1シーンは、「フランダースの犬」 のネロとパトラッシュのラストシーンだという。アニメ化されていなければ、知る人の少ない世界中の名作が、アニメのおかげで、今や日本人の子供たちの中では知らない子のほうが少なくなっている。

 

 

【ロボット・アニメ】
 テレビで放映されてきたアニメは、マンガ雑誌の連載で人気を得ていたものや、「世界の名作」 や 「日本昔話」 のような童話が原作のものが主流だと思うけれど、こういった作品を別にすれば、
 テレビアニメのオリジナルは全てオモチャ屋さんがスポンサーになったロボットものと言っても過言ではありません。(p.30)
 ロボット・アニメのスポンサー企業は、アニメの中身にまで容喙していたらしい。
 突然新しいおもちゃを持ってきて、今度これを売り出すので、来週から登場させろと無理難題を吹っかけてきたり、人間ドラマなどどうでもいいから、全編オモチャの活躍している場面を入れろとむちゃくちゃです。30分の番組全部CMと思っているのですからたまりません。(p.31)
 “露骨なり商業主義” と言ったところ。
 しかし、 「ガンダム」 など、初めはオモチャ屋企画とかロボット物と言われて低く見られていたこれらが、アニメ・ブームを作っていったというは、まぎれもない事実だったらしい。

 

 

【オリジナルを守るか否か】
 実は私も今その著作権の問題で頭を痛めています。相手は前述のディズニー・プロダクションです。(p.50)
 ディズニー側が、日本のオリジナルを盗用したとか守らないと言うことではなく、ディズニーの規定が厳しいと言っている。
 1989年の世界名作劇場が 「ピーターパン」 に決定したことから始まりました。 ・・・(中略)・・・ ピーターパンのキャラクター、緑の帽子とピラピラのついた服でおなじみのあのピーターパンはディズニーのオリジナルであるから、それに抵触してはならないという事なのです。
 ディズニーによってあまりにも強烈にイメージ化されてしまったこのキャラクターに対し、日本アニメーションの意地をかけても新しいイメージのピーターパンを創出せねばと決心しています。(p.51-52)
 ピーターパンの服装、色には文化的にきちんとした深い意味がある。それはディズニーが決めたというより、西洋文化のルーツを知悉した教養ある判断によって定められている。下記リンク書籍を読んでみればそれは納得できることである。
   《参照》   『ピーター・パンはセックス・シンボルだった』 松田義幸 (クレスト)
 この本を読んでいなければ、著者の 「意地をかけても・・・」 という意見に安易に賛成してしまっていたかもしれない。アニメは日本人クリエイターの大活躍によって世界中に認知されるようになった国際的な立派な文化産業なのだから、それぞれの文化に対して敬意を示すべきだろう。原作者が秘め置いた奥深い文化を崩してまでアニメクリエイターの独創で改変させようと意地を張るのは正しくない。
 掲載されている写真を見ると、著者のプロデュースによって出来たピーターパンは、 “向こう脛” が見えてしまっているけれど、これはディズニーが許可したということなのだろう。

 

 

【マンガと文学の明暗】
 マンガ同人誌がかつての文学同人誌と根本的に違うところは、とにかく明るく、ひたすらその道を追求するようなストイックさは微塵もなく、すぐ仲間と群れ集う点です。(p.70)
 明るさは軽さに、暗さは重さに馴染みやすい。
 太陽活動の活発化・亢進化に比例するかのように、時代の精神的潮流は明らかに月光から太陽光に象徴される側へと移行してきた。文学からアニメへという移行はこれに付随する現象のはずである。しかし、夜から昼間に転じたかのような光の氾濫は、暗在する部分への想いを欠く傾向がある。あたかも天空ばかりを目指して地上には目が向かないという感じですらある。そして、光が奥深くまで透過するのは “純な性質” を持つ物質や人間性に限定される。マンガ・文学を問わず、明るさに慣れた上で、どこまで光を感受できるかが個々人に問われているのだろう。

 

 

【アニメ業界の若者達】
 アニメは子供たちに夢を与える大切なものです。そしてその子供たちに夢を与える夢を見ながら、大勢の若者たちがこの業界に入ってきます。
 彼らに共通する点は、同年輩の一般の若者に比べ、おしなべて意識が子供っぽく、社会の出来事にあまり関心を示さないことです。(p.81)
 一般の若者達も、数十年前の同年代の若者たちに比べたら、そうなっているはず。

 

 

【テレビが運ぶもの】
「テレビが常に新しいものを追いかけ、古いもの、あるいは年季の入った芸を疎んずるのは、テレビ局も意識していないと思うんだが、本来テレビは新鮮な生ものを提供すべく生まれてきたものだからなのだ」
「芸の干物は冷凍して運ぶ必要はない」
「うまい言い方だなあ。冷凍技術が発達する前は食べ物を保存するには干物とか燻製とか漬け物にするしか方法がなかったんだ。文化にも同じことが言えないか。つまり後世に伝えるために、切磋琢磨して形に残す、これが芸というものじゃないかな」
「歌舞伎、能、落語・・・みんなテレビ的じゃないし、若者の人気も今ひとつ。今テレビでもてはやされている瞬間芸なんてのは、まさに新しいだけが取り柄だもんね」 (p.105-106)
 日本の古典的な芸事における 「型」 の第一義は、スピリッチュアルなものを招くための 「エネルギー圧縮装置」 という処にあるはずなのだけれど、この記述にあるように、文化の 「伝達装置・保存装置」 として見ることも確かに可能だろう。
   《参照》   『萬斎でござる』 野村萬斎 (朝日新聞社)
               【 能楽の 「型」 】

 瞬間芸ばかりみて笑っているだけの人に、干物や燻製や漬け物のように時空間が圧縮されて詰まっている芸術など、とんと理解できないことだろう。そこに圧縮された時空間を自ら解凍し咀嚼できるか否かこそが、それを見る人の教養であり文化力なのである。

 

 
<了>