
井上さんは剣道の達人で81歳。森沢さんはスポーツライターで40歳。森沢さんの質問に井上さんが答える形式で編集されている。剣道を通じて日本文化を語った書籍。
【日本文化における稽古】
ところで、「稽古」 の 「稽」 という字の持つ意味は案外知られていませんよね。この文字、実は 「考える」 という意味を持っているのです。そして 「古」 という言葉には 「古い」 という意味のほかに 「真実」 「真理」 という意味もあります。・・・中略・・・。
つまり剣道における 「稽古」 というものは 「真実と真理を追求しながら、生き方に間違いがないかどうかを考えていくこと」 なのです。(p.14-15)
つまり剣道における 「稽古」 というものは 「真実と真理を追求しながら、生き方に間違いがないかどうかを考えていくこと」 なのです。(p.14-15)
【二礼二拍一礼】 道場で稽古する前には、必ず神棚に拝礼をさせます。もちろん日本の伝統的な拝礼の仕方を教えています。
二礼二拍手一礼、これをやっているんです。
この 「二礼」 というのが何と何に対する礼なのか、知っていますか? これはね、天、つまり宇宙や大自然に対しての感謝の礼、大地(地球)に対しての礼なんです。天と地を合わせて 「二礼」。
次の 「二拍」 というのは、これら天地を褒め讃えるという意味で拍手するわけです。そして、最後の一礼、その天地において立派な生き方をすると誓った自分自身に対しての礼なのです。 (p.49)
この 「二礼」 というのが何と何に対する礼なのか、知っていますか? これはね、天、つまり宇宙や大自然に対しての感謝の礼、大地(地球)に対しての礼なんです。天と地を合わせて 「二礼」。
次の 「二拍」 というのは、これら天地を褒め讃えるという意味で拍手するわけです。そして、最後の一礼、その天地において立派な生き方をすると誓った自分自身に対しての礼なのです。 (p.49)
神社参拝の形式として、一般的には “二礼二拍手一拝” と言うけれど、本書には “二礼二拍一礼” と書かれている。
【剣道の相手】
自分の前に出てくる相手がね、「神様のお遣い」 ではなく、神様そのものだと感じはじめてきたのです。
最初にそれを感じた時は、驚きました。向かい合った相手に心をこめて礼をしようとしたとき、突然相手がピカーッとひかったのですから。まさに後光がさしたのですから。
自分のしている稽古とは、神様相手の稽古である・・・・そのことに気づいてからは、もういい加減なことは出来なくなりました。(p.172)
自身がある程度極まっていなければ、こういう体験には出会えないだろう。著者にしても、常に神様が見ているという自覚のもとにある稽古の日々が先にある。最初にそれを感じた時は、驚きました。向かい合った相手に心をこめて礼をしようとしたとき、突然相手がピカーッとひかったのですから。まさに後光がさしたのですから。
自分のしている稽古とは、神様相手の稽古である・・・・そのことに気づいてからは、もういい加減なことは出来なくなりました。(p.172)
【日本では昔から左側通行】
近代化をする過程で学んだ英国のシステムが左側通行だったからではない。
近代化をする過程で学んだ英国のシステムが左側通行だったからではない。
サムライの時代、すでに日本は左側通行が常識だったのです。どうしてかと言うと、いざという緊急の場合、左腰に帯びた刀を右手で抜いて戦うには左側通行をしているほうが有利だからです。だから侍は左側を歩いていたわけです。(p.111)
日本文化の中核である「言霊」によると、
左は 「霊足り」。 右は 「身ぎり」。
「霊」 は非物質次元。 「身」 は物質次元。
次元的には、非物質>物質。
即ち 左>右。
故に、日本文化における左右は、
【左・上位】
【「修業」 と 「修行」 の違い】
自分の利益のために一定の技を習い修めることが 「修業」 となります。・・・中略・・・。始まりがあって、終わりがあります。学校でも 「始業式」 とか 「終業式」 ってあるでしょう。
一方、「修行」 は、利害得失から離れて、悟りを開いた先達の 「道」 を行くことを言います。そして、それを極めていけば、やがて先達の切り開いた道よりもさらに先の道へと踏み出していくことができるのです。先へ、その先へ。ですから 「修行」 には終わりがありません。(p.122)
一方、「修行」 は、利害得失から離れて、悟りを開いた先達の 「道」 を行くことを言います。そして、それを極めていけば、やがて先達の切り開いた道よりもさらに先の道へと踏み出していくことができるのです。先へ、その先へ。ですから 「修行」 には終わりがありません。(p.122)
日本文化では「守・破・離」という進歩成長の段階表現があるけれど、「修業」は「守」で、「修行」は「破・離」を目指す段階と言い換えても大きな間違いではないだろう。
【アレーテーを有するエリート】
作家の曽野綾子さんが 『都会の幸福』 というエッセイのなかで 「勇気」 についてこう語っています。
「勇気とは香気を放つ情熱である。古代ギリシャ語では、勇気はアレーテーといい、それは同時に力、男らしさ、卓越、徳、奉仕、貢献の全てを意味した。つまり勇気のないところに力も男らしさも卓越したものも徳も奉仕も貢献もないということを見抜いていたのである」
素晴らしい一文だと思いませんか。
アレーテーという言葉は、エリートの語源にもなっているそうですよ。(p.128)
「勇気とは香気を放つ情熱である。古代ギリシャ語では、勇気はアレーテーといい、それは同時に力、男らしさ、卓越、徳、奉仕、貢献の全てを意味した。つまり勇気のないところに力も男らしさも卓越したものも徳も奉仕も貢献もないということを見抜いていたのである」
素晴らしい一文だと思いませんか。
アレーテーという言葉は、エリートの語源にもなっているそうですよ。(p.128)
仏教から神道へと目を転じていたころ、「勇猛心」という言葉にしばしば出会い、新鮮な感じで受け止めていたことを記憶しているけれど、なぜ仏教を学ぶ過程で「勇猛心」という言葉を耳にすることがなかったのかを思えば、「仏道」から「仏教」になってしまっていたからなのだろう。
「教え」の先に「修業」があり、「修業」の先に「修行」がある。
神道では「神を行ずる」と、よく言うけれど、仏教では「仏を行ずる」とは、確かに言わない。
道を忘れた仏教は、去勢されているだろう。
「勇気のないところに力も男らしさも卓越したものも徳も奉仕も貢献もない」 という記述は、この上なく重要である。
【参上り(まいのぼり)】
【 「術」 の先に 「道」 がある】
「術」 という漢字には、ちょっとおもしろい意味があります。この漢字をバラしてみると 「行」 という字のまんなかに 「朮」 という文字が入っているでしょう。この 「朮」 は中国の言葉で、山野に自生するキク科の多年草 「よもぎ」 や 「おけら」 を表します。・・・中略・・・。つまり、「術」 という文字は、中国の都・長安(現在の西安)へと続く大道に至るための田舎の小道のことなのです。(p.180)
「小道」 の先に 「大道」。 下記リンクでは、 「剣術」 を 「剣戟」 という言葉に添わせて書いているけれど、
○ 「新撰組」という剣戟集団に見られる“死の美学” ○
「剣術」 の先に 「剣道」 。
「剣術」 の先に 「剣道」 。
「武術」 の先に 「武道」 。
「修業」 の先に 「修行」 がある、とも言える。
□■□■□ 「 剣 と 刀」 そして 「 武道 と 武術 」 □■□■□
【脇差し:自決の覚悟】
時代劇を見ればわかりますけれど、侍はみな刀を二本刺していますよね。あれは太刀と脇差し。もしくは小太刀と脇差しの組み合わせです。
脇差しという刀は、「侍として恥をかいたときは自決するぞ」 という覚悟の証であり、生き様の証明のようなものだったわけです。(p.210)
《参照》 日本文化講座⑧ 【 武士道 】脇差しという刀は、「侍として恥をかいたときは自決するぞ」 という覚悟の証であり、生き様の証明のようなものだったわけです。(p.210)
【 武士と刀 】
【剣道における 「残心」 】
勝ってガッツ・ポーズをするなど、日本人の心が育んだ “武道精神“ からはかけ離れたものである。そこには謙虚さもなければ、終わりなき道を究めんとする真摯な姿など微塵もない。
剣道では一本とった瞬間に、勝者が 「懺悔」 するのです。それが 「残心」 であり、剣道の考え方の基本中の基本となっています。 ・・・中略・・・。 つまり己の命を守り、正しいことを表現するための一刀ではあったけれど、これより他に方法はなかったのだろうか・・・・・という懺悔です。
剣道ではね、素晴らしい攻撃をしても相手に有効な攻撃を与えたとしても、「残心」 が見られなかった場合は、その攻撃は有効とみなされないというルールがあるんです。これはスポーツにはないルールですよね。武道ならではの精神が反映されたものだといえるでしょう。(p.38-39)
竹刀を用いた勝負であっても、心は文字通りの “真剣” 勝負である。止むを得ず、相手を切り殺してしまったことに懺悔する姿としての 「残心」である。剣道ではね、素晴らしい攻撃をしても相手に有効な攻撃を与えたとしても、「残心」 が見られなかった場合は、その攻撃は有効とみなされないというルールがあるんです。これはスポーツにはないルールですよね。武道ならではの精神が反映されたものだといえるでしょう。(p.38-39)
勝ってガッツ・ポーズをするなど、日本人の心が育んだ “武道精神“ からはかけ離れたものである。そこには謙虚さもなければ、終わりなき道を究めんとする真摯な姿など微塵もない。
残心は、日本文化に通底するもの。
《参照》 日本文化講座 ⑥ 【 茶道 】
○茶道用語 『 残心 』
【武道精神とスポーツマンシップの違い】
「争わない」 「勝ち負けを最終目的としない」。
これがスポーツマンシップにプラスされた武道の精神なのです。(p.71)
【究極の立ち会い 「相ぬけ」 】
森沢 : では、修練に修練を重ねて、極限までオーラを高めた者同士が刀を向けあったときには、いったいどうなるのでしょうか?
井上 : 実はそういうときは、闘いそのものが起きないのです。お互いが、お互いのオーラから 「高いレベルの人格」 を感じ取り、お互いにその 「人格」 を認め合うことで、結果として、両者、剣を納めてしまうのです。つまり、平和が訪れます。
強くなるということは、平和を生み出す力を得るということです。そして、このような立ち合いを 「相ぬけ」 と言います。平和が生まれる戦い、いわば究極の立ち会いですね。(p.265)
井上 : 実はそういうときは、闘いそのものが起きないのです。お互いが、お互いのオーラから 「高いレベルの人格」 を感じ取り、お互いにその 「人格」 を認め合うことで、結果として、両者、剣を納めてしまうのです。つまり、平和が訪れます。
強くなるということは、平和を生み出す力を得るということです。そして、このような立ち合いを 「相ぬけ」 と言います。平和が生まれる戦い、いわば究極の立ち会いですね。(p.265)
<了>