
今から24年前、著者が33歳の時に講義していた内容が、口語体のまま記録されている。あまりに平易な言葉で語られているけれど、奥深い内容に満ちている。 10年ぶりの再読。
【身体が神体 → 自霊拝】
第2章は、「神は身のうちにあり」 というテーマの話が続いている。
身の内にある神と一体化するために、禅宗では “座禅” を組むけれど、神道では座禅を組まず、行動によって、“神人合一” を目指す。 王陽明の “知行合一” が、神道的な立場に近いのである。
第2章は、「神は身のうちにあり」 というテーマの話が続いている。
日本の言霊でみますと、身体っていうんですけど、これは神体。面白いですねえ、最初の御神体というものは身体なんですね、不思議なことに。今、神社でパチパチと手を合わせまして、こうお辞儀してパッと上げますと鏡がありまして、何が映っているかと言ったら自分の姿が映っているんですよね。ずっと前にお話ししましたように、自霊拝というお話、日本神道のお話ししました時に、自らの霊を拝すと。天皇さまが鏡を見ましてね、自霊拝する。自らの霊を拝む、自分自身を尊ぶと。自分自身の尊い神様が宿られるところだから、大切にするんだと。自分の身体というものは、御神体なんですよと。 (p.36)
「神は身のうちにあり」 という内容を、禅宗的な表現でいうと、慧能禅師の 「自己本来の面目」、臨済禅師の 「一無位の真人」、または 「父母未生の我」、瑞巌禅師の 「御主人公」 になる。(p.42) 身の内にある神と一体化するために、禅宗では “座禅” を組むけれど、神道では座禅を組まず、行動によって、“神人合一” を目指す。 王陽明の “知行合一” が、神道的な立場に近いのである。
【陽明学】
陽明先生は、この良知とか、眠っている聖人を目覚めさせるのに、知行合一、心即理の法則を体得するために、瞑想とか座禅をしちゃいけませんと。陽明学の立場ってのは、神人合一と座禅の中間ぐらいの位置ですね、陽明先生の言っている教えは。 (p.51)
陽明学を学んだ武士たちは、”知行合一” でも “神人合一” でもなく ”事上練磨” という言葉で表現していた。 【瞑想では周波数は上がらない】
【瞑想や滝行の危険性】
瞑想するとか・・・・滝に打たれるますと、強い水の水圧が来ますので、脳が朦朧とするんです。・・・中略・・・。滝の修行や断食をしますと、御本霊の魂の力が弱くなりますから、・・・中略・・・、特に人霊とか動物霊がワッとその御霊の中に乗り移るんです。 (p.76)
低級な動物霊が御魂に入れば、他人の財布にいくら入っているとかいうレベルの、人の幸せになんら寄与しない低級な霊能力はいくらでももつことができる。
【詩に興り、礼に立ち、楽に成る】
孔子は、教養を 「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」 と定義している。
孔子は、教養を 「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」 と定義している。
[ 詩に興り ]
孔子さんも言いました、「詩とは何か」 と。詩の神髄とは何かと言いますと、いわく 「思い邪なし」 と。
孔子が言うのは、邪のない心。人間の心の中の感情の美しい部分、これを詠うわけです、詩を。ですから、詩を理解できるということは、人間の高貴な部分を理解できると。人間の内面性の高貴な、もっとも高貴な部分を理解できるという人にして初めて、教養があるというわけですね。だから、まず 「詩に興る」。 (p.82)
[ 礼に立ち ]
孔子さんは、この礼が出来て初めて、この人間社会の中で教養というものが確立するんだよと。これができない人はまさに教養がないですよ。「礼儀を失するからあいつは教養がない」 と。この御神業(ごしんぎょう)でも、社会常識とか礼のない人間は、いくら素質があったとしてみても行き詰まりだと。高級神霊と接霊できないからなんですよ。神様拝んでても、やってましても、真善美がないから、行き詰まるわけです。ですから、礼儀のない人間っていうのは最終的に行き詰まっちゃうから、こちらの方からお断り。もう限界がありますと。同じことですね。 (p.86)
[ 楽に成る ]
楽っていうのは音楽です。音楽によって教養は完成するんだと。・・・中略・・・。当時の孔子の言っていた音楽というのは、雅楽みたいな形で複数の人たちがわーっと。・・・中略・・・。
ですから調和。美しい美を作るために調和してゆこう。出すぎないで、引っ込みすぎないで、調和をはかっていこうと。これによって初めて教養ができる。音楽の美と言うんですかね。 (p.86)
神霊界というのは、高貴な美と礼(霊)節と調和が遍在する秩序立った世界である。日本社会は日本神霊界を映して形成されている。これを踏襲しない教育は日本文化を破壊し、これを踏襲できない人間は、社会的成功はおぼつかず、畢竟するに神の取次者たる真正・日本人と言うに値しない。 孔子さんも言いました、「詩とは何か」 と。詩の神髄とは何かと言いますと、いわく 「思い邪なし」 と。
孔子が言うのは、邪のない心。人間の心の中の感情の美しい部分、これを詠うわけです、詩を。ですから、詩を理解できるということは、人間の高貴な部分を理解できると。人間の内面性の高貴な、もっとも高貴な部分を理解できるという人にして初めて、教養があるというわけですね。だから、まず 「詩に興る」。 (p.82)
[ 礼に立ち ]
孔子さんは、この礼が出来て初めて、この人間社会の中で教養というものが確立するんだよと。これができない人はまさに教養がないですよ。「礼儀を失するからあいつは教養がない」 と。この御神業(ごしんぎょう)でも、社会常識とか礼のない人間は、いくら素質があったとしてみても行き詰まりだと。高級神霊と接霊できないからなんですよ。神様拝んでても、やってましても、真善美がないから、行き詰まるわけです。ですから、礼儀のない人間っていうのは最終的に行き詰まっちゃうから、こちらの方からお断り。もう限界がありますと。同じことですね。 (p.86)
[ 楽に成る ]
楽っていうのは音楽です。音楽によって教養は完成するんだと。・・・中略・・・。当時の孔子の言っていた音楽というのは、雅楽みたいな形で複数の人たちがわーっと。・・・中略・・・。
ですから調和。美しい美を作るために調和してゆこう。出すぎないで、引っ込みすぎないで、調和をはかっていこうと。これによって初めて教養ができる。音楽の美と言うんですかね。 (p.86)
<了>