《前編》 より
【軍師・山本勘介】
今川義元は、寺で出会った高僧・太原雪斎の指示で、対抗者を討ち果し国主になった。その後、軍師となった雪斎の助言をえつつ、東海地方に一大勢力を築いた。
勘介の活躍なくして、武田家の興隆もなかったはず。
勘介を軍師としていた武田家の 『甲陽軍鑑』 には、次の件がある。
「また、山本勘介の剣術についても、新当流でないからといって謗るのは見当違いである。・・・どの流派であろうと、上手な物を誉めるのは当然である。・・・中略・・・。牛窪の小身な家であれ、軍法の練達者である以上、勘介はすぐれた武士である。勘介の噂を聞いて、信玄公は百貫の知行をもって召し抱えた。 (p.190)
勘介は、もともと今川家の人。剣術が今風でないとか、家柄が低いなどの理由で見放されていた。「また、山本勘介の剣術についても、新当流でないからといって謗るのは見当違いである。・・・どの流派であろうと、上手な物を誉めるのは当然である。・・・中略・・・。牛窪の小身な家であれ、軍法の練達者である以上、勘介はすぐれた武士である。勘介の噂を聞いて、信玄公は百貫の知行をもって召し抱えた。 (p.190)
今川義元は、寺で出会った高僧・太原雪斎の指示で、対抗者を討ち果し国主になった。その後、軍師となった雪斎の助言をえつつ、東海地方に一大勢力を築いた。
やがて、軍師の雪斎が死亡する。すると、それまで痩せて精かんだった義元は、京風文化に堕落させられたのか、ブクブクと太り始め、馬にも乗れなくて、移動には輿をつかうようになったという。 (p.190)
勘介を第二の雪斎にしておけば、今川家の滅亡はなかったであろう、と著者は書いている。勘介の活躍なくして、武田家の興隆もなかったはず。
【武士の刀】
「恐怖」 を感じたとき敗者となる。「恐怖」 を感じさせることができるならば勝者となる。臨戦状態において、戦わずして勝つことを可能にするのは、「畏怖」の根源にある “霊威・神威“ である。武士道が常に、神仏を敬い、かつ、生死の境界域を背景にしていたのは “霊威・神威“ の世界を自らのうちに招き入れたいがためであったのであろう。
15世紀の日本において、キリシタン殉教者が世界で最も多かったという背景には、武士以外の平均的日本人においてすら、神への揺るぎない信仰をいだく心的素質があったからであろう。この点において、同時代を共に生きていた武士とキリシタンに違いはないはずである。
『武士道』 を書いた新渡戸稲造は、「刀は武士の魂である」 と言う。
・・・中略・・・
「危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる」
腰に差す刀は、忠誠と名誉の象徴だという。どんなときでも腰から離れることはない。
「刀はその持ち主の良き友として愛用され、・・・敬愛の念がたかまると、ほとんど崇拝といってよい感情が移入される」
だから、刀に対するいかなる無礼もその持ち主に対する侮辱とみなされる。
このように崇敬される刀をつくる刀匠は、単なる鍛冶屋ではなく、「神の思し召しを受ける工芸家」 である。その仕事場は神聖で、刀匠は、毎日、神仏に祈りを捧げ、みそぎをしてから仕事にとりかかる。
「大槌を振り、水につけ、砥石で研ぐ、これらすべてが大変な宗教行為」 である。
日本の刀剣が人を畏怖させるほどの魔力を持つのは、この刀鍛冶たちの気迫によるのだろうか、という。
・・・中略・・・
幕末に来日した西欧諸国の外交官たちは、拳銃より刀に対して言い知れぬ生理的恐怖心を抱いたという。(p.193-194)
刀匠の刀鍛冶という宗教行為によって宿ったものを継承する武士の刀は 「畏怖」 の対象になるけれど、それを解せぬ西欧人には 「恐怖」 と感じられるのだろう。・・・中略・・・
「危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる」
腰に差す刀は、忠誠と名誉の象徴だという。どんなときでも腰から離れることはない。
「刀はその持ち主の良き友として愛用され、・・・敬愛の念がたかまると、ほとんど崇拝といってよい感情が移入される」
だから、刀に対するいかなる無礼もその持ち主に対する侮辱とみなされる。
このように崇敬される刀をつくる刀匠は、単なる鍛冶屋ではなく、「神の思し召しを受ける工芸家」 である。その仕事場は神聖で、刀匠は、毎日、神仏に祈りを捧げ、みそぎをしてから仕事にとりかかる。
「大槌を振り、水につけ、砥石で研ぐ、これらすべてが大変な宗教行為」 である。
日本の刀剣が人を畏怖させるほどの魔力を持つのは、この刀鍛冶たちの気迫によるのだろうか、という。
・・・中略・・・
幕末に来日した西欧諸国の外交官たちは、拳銃より刀に対して言い知れぬ生理的恐怖心を抱いたという。(p.193-194)
「恐怖」 を感じたとき敗者となる。「恐怖」 を感じさせることができるならば勝者となる。臨戦状態において、戦わずして勝つことを可能にするのは、「畏怖」の根源にある “霊威・神威“ である。武士道が常に、神仏を敬い、かつ、生死の境界域を背景にしていたのは “霊威・神威“ の世界を自らのうちに招き入れたいがためであったのであろう。
15世紀の日本において、キリシタン殉教者が世界で最も多かったという背景には、武士以外の平均的日本人においてすら、神への揺るぎない信仰をいだく心的素質があったからであろう。この点において、同時代を共に生きていた武士とキリシタンに違いはないはずである。
<了>