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 日経の書評には、「暮らしの中に、なに気なく使われている 『和数』 の持っている意外な意味を、民俗学、哲学、漢籍、古典からの豊富な知識を駆使しながら、下世話で楽しい茶のみばなしに仕立てた演劇学者の貌」 と書かれているけれど、著者には、神道の数霊・言霊に関する基本的な見識がないからなのだろう、なんだか体系的にまとまりのないバラバラ寄せ集め的な記述になっている。
 書評にあるように、まさに 「茶のみばなし」 程度の内容である。


【ひとつ】
 「ひとつ」 の 「ひ」 は、ひこ(彦)、ひみこ、ひこばえ、ひよめき、ひな(雛)、ひな(鄙・夷)、ひめ(媛・姫)などから、ひな型という表象になり、愛すべきもの、少さいもの、低い、ひ弱なものとなって、外来語に圧せられてゆくのではないか。一の文化が交替するのではないか。  (p.15-16)
 「ひとつ」 の 「ひ」 を言うのであれば、それは 「霊」 である。 「人(ひと)」 とは 「霊止」 のことである。このような基本的なことが分かっていないから、 “少さいもの、低い、ひ弱なものとなって、外来語に圧せられてゆくのではないか。一の文化が交替するのではないか。” などという闇雲なことを書いている。
 「あめのかずうた」 等の、神道の基本的な知識すらない方が 「和数」 というテーマの著作を著すこと自体、実に相応しくないことである。

 

 

【みっつ】
 とかく 「三」 は世界の構成を指し示す幻の数であって、実数ではない。そういえば、昔の富士山の頂上は、つねに三つの凸形で描かれるのが定石であった。  (p.38)
  “世界の構成を指し示す幻の数であって、実数ではない” という著者の見解の論拠らしい記述を、古典から引用するならば、 『易経』 の 「一は二を生じ、二は三を生じ、三はすべてを生ずる」 という文言なのであろう。しかし、「みっつ」 という数に関して、このような最も要となる古典の引用を欠いている。

 

 

【むっつ】
 つまり 「六」 は、五つの世界からもう一つ出た、もう一つの世界の幻影を構成したのである。この世でないものに入ってゆく数が 「六」 なのである。  (p.86)
 数霊(かずたま)・言霊(ことだま)の基本的な概念で、著者の記述を補うなら、「一」 から 「九」 までの数の中で、 「六」 は “陰の極” だからそうなる、のである。

 

 

【ここのつ】
 「九」 は、数のきわまりであり、数の終わりなのである。  (p.152)
 この様な表現は当然のことであって、 “きわまり” を言うのであれば、「九は陽の極まり」である、と記述すべきである。
 気学における 「九星」 と 「五行」 の相関において、 「九」 は 「火」 と組み合わされているし、 「満つれば欠ける」 という表現も、満つる(十)前の状態(九)を、最も望ましく盛んな状態と認識しているからである。ついでに、「亢龍、悔いあり」 は 「満つれば欠ける」 と同じことを言っている。
 
 
<了>