
著者の名前で思い出した弓道に関する著作。岩波文庫か何かで読んだことのある 『弓と禅』 というふうなタイトルの本があったけれど、『無我と無私』 の原書はそれと同じだという。翻訳者は 「日本の品格」 で有名な藤原夫妻。
弓道を実践したことのある人々にとっては、イメージしやすい記述であり、首肯しつつ 「そうだよねぇ・・・」 と思える内容である。
弓道を実践したことのある人々にとっては、イメージしやすい記述であり、首肯しつつ 「そうだよねぇ・・・」 と思える内容である。
【禅は哲学できない】
阿波師範の門下生となったヘリゲルは徹底的に納得するまで弓について、禅について、師に問いかけます。日本古来の芸道はすべて、理屈抜きに師を模倣することにより業を修得していきますが、西洋人であるヘリゲルは遠慮なく、容赦なく 「理」 を追求していきます。禅というもっとも 「理」 から遠い世界に、欧米的な合理の刃で切り込んでいく様は非常に刺激的であり、知的興奮に満ちたものであります。 (p.138) 「あとがき」
弓禅一如というけれど、哲学では弓道も禅も語りえない。
師範は私の分野である哲学のほうから手助けをできないものかと、日本語の哲学入門書をひもといたりしたという。しかし結局、哲学に興味を持つような人間には弓道は極めてむずかしいにちがいないということが漸くわかった、と師範は言って、不機嫌そうに本を放り出したと言うことである。 (p.82)
【術なき術】
師範は 「術なき術」 について時間をかけて説明した。それは、弓道に完成と言うものがあるなら、最終ゴールに違いなかった。「兎の角、亀の髪で射ることのできる人、つまり弓(角)矢(髪)なしで的の中央に当てることができる人、その人こそ本物の達人であり、術なき術の達人なのです。 (p.109)
「術なき術」 は、“守・破・離” の “離” を言っている。 《参照》 “守・破・離” に関する引用一覧
中学校の国語の教科書に載っていたので、おそらく全ての日本人が知っている 『山月記』 という有名な短編小説がある。 「私の毛皮が濡れたのは夜露のためばかりではない・・・・・」 という台詞で記憶に新しい 『山月記』 である。その著者・中島敦の作品に、もう一つ名作、『名人伝』 というのがある。これこそが、「術なき術」 = 「不射の射」 を体得していった弓の達人を小説に描いたものである。
中学校の国語の教科書に載っていたので、おそらく全ての日本人が知っている 『山月記』 という有名な短編小説がある。 「私の毛皮が濡れたのは夜露のためばかりではない・・・・・」 という台詞で記憶に新しい 『山月記』 である。その著者・中島敦の作品に、もう一つ名作、『名人伝』 というのがある。これこそが、「術なき術」 = 「不射の射」 を体得していった弓の達人を小説に描いたものである。
この本に出会ったのは、大学時代、ハイゼンベルグの不確定性原理に連なる興味からであったように記憶している。そうでなければ、カウンター・カルチャー・ムーブメント思想に連なって、だったのだろう。
高校時代、弓道部に所属していたのに、誰一人、ヘリゲルさんのこの著作のことも、中島敦の 『名人伝』 のことも教えてくれる先輩たちはいなかった。 先輩たちに向かって 「ドアホ!」 と言いたい。
「2つ上の篠原部長はルックスもよかったし、当て射の個人タイトル保持者やったけん、それでもドアホ~や!」
「1つ上の守屋部長なんて、ドドドのドッアホ~」。ついでに 「三井のドッアホ~」
「津金先輩はドアホじゃありません。女性ですから」
「同い年の川手部長は、ドアホとちゃうで。おんなじ犠牲者や。ワテもウーマンも飯島も遠藤も染谷さんも浅川さんも・・・あれ、あとの連中・・・名前が出てこない・・・・・」
「2つ上の篠原部長はルックスもよかったし、当て射の個人タイトル保持者やったけん、それでもドアホ~や!」
「1つ上の守屋部長なんて、ドドドのドッアホ~」。ついでに 「三井のドッアホ~」
「津金先輩はドアホじゃありません。女性ですから」
「同い年の川手部長は、ドアホとちゃうで。おんなじ犠牲者や。ワテもウーマンも飯島も遠藤も染谷さんも浅川さんも・・・あれ、あとの連中・・・名前が出てこない・・・・・」
<了>