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 この書籍は、“「愛せよ」と語ったキリスト教 vs 「愛するな」と語った仏教”  という大きな対比の中で記述されている。
 世界的な宗教を比較相対的に学ぼうと思っている若者にとっては、学べることの多い本のはずである。


【結婚相手を「選択」しなかった日本人】
 古代の人々は「選択」を嫌ったのです。人間の値踏みをやって、気に入ったものを自分の配偶者とするような制度を拒否しました。
 男と女は、それぞれの親が選んだ相手と結婚します。
 そして、相手とのあいだに愛を培うのです。
 そうすることによって、本物の、すばらしい愛が育つ可能性があります。
 もちろん、失敗もあります。でも、失敗のパーセンテージでいえば、現代のほうが離婚率が高いのではないでしょうか。      (p.26)
 対象を選択するのが「(キリスト教の)愛」であり、対象を選択しないのが「(仏教の)慈悲」である、という大まかな枠組みを想定して著者はこう書いているらしい。

 

 

【 “おかま” はお坊さんがつくった隠語か?】
 性愛の原語はパーリ語の “カーマ” ですが(サンスクリット語でも同じ)、わたしは、ひょっとしたら日本語の “おかま” は、この “カーマ” が語源ではないかと思っています。昔の僧侶のあいだでは男色が多かったのですから、お坊さんのつくった隠語である可能性があります。 (p.70)
 なるほど・・・・。

 

 

【無抵抗主義をとくのが宗教ではない】
 <非・暴力>というのは、暴力の否定です。しかし、暴力を否定すれば、ややもすると静観主義になってしまいます。なにもかもを暴力と呼んで、「暴力はいけない!」と叫ぶならば、わたしたちは何も行動できなくなります。ガンディーはそんなことを言っていません。彼は<非暴・力>で、つまり、非暴の力、暴ならざる力でもって積極的に悪と戦うことを主張したのです。   (p.84)
 仏教徒はこういった考え方を理解して身につけておかないと、「仏教は社会的に全く無力である」という急進的な社会改革派の糾弾に対応できなくなってしまう。

 

 

【宗教と倫理の区分から、ユダヤ教とキリスト教と仏教を見る】
 宗教とは・・・超越者(神)と人間との関係(タテの関係)をいい、
 倫理とは・・・人間と人間との関係(ヨコの関係)をいう。
 ユダヤ教においては、このタテの関係とヨコの関係 --- つまり宗教と倫理 --- が密接に関係していました。神は倫理面にまで口出しをされているのです。したがって、倫理がたんなる道徳ではなしに、宗教倫理になっているのです。
 ところが、キリスト教においては、タテの関係とヨコの関係がまったく切れてしまったのです。キリスト教においては神と人間のタテの関係は契約関係ではありません。タテの関係は、あくまでわたしが神の愛を「自覚」することによって成立する関係です。自覚しない者には、神は無関係の存在になってしまいます。
 契約関係であれば、神の言葉は命令になります。ユダヤ教においては、神がわれわれに、
「隣人を愛せよ!」
 と言われたならば、それは神の命令(律法)であって、われわれはそれを無視できません。
 だが、キリスト教には契約概念がありませんから --- 少なくとも希薄ですから --- 神の言葉はユダヤ教ほど強い命令ではなくなります。どういえばよいか、まあ神からの期待と言うことになります。 (p.194-196)

 ユダヤ教においては、人間はいわば神の奴隷であります。その神の奴隷であることからも解放されて自由になったのがキリスト教。したがって、キリスト教の本質は「自由」の2文字にあります。
 だから、人間関係について神は無用な口出しをされない。人間は自由にやればよろしい。
 でも自由ということは、ある意味で危険です。
 なぜかといえば、自由になれば、そこには、----- 人間の都合 ----- が優先され、幅をきかすことになるからです。私たちは、自分に利益を与えてくれる者を愛することはできますが、自分の不利益になる者を愛することはできかねます。たぶん、憎むのではないでしょうか。このように、愛と憎しみは人間の勝手な都合に依存することになります。
 となれば、愛は醜いものです。
 その愛の醜さを一番よく知っていたのが、釈迦ではなかったでしょうか。だから、釈迦は、
「愛するな!」 と教えたのです。                     (p.197-198)

 

 

【神道の愛】
 神道において、愛はどのように考えられているのでしょうか?
 ずばり言ってしまえば、愛はプライベート(私)な問題です。私事です。それは個人のうちでやればよいことであって、それをパブリック(公)な場に持ち出してはいけません-------。神道ではそう考えるようです。
 神道の原則は、徹頭徹尾 「滅私奉公」 です。愛というものは、神道においては片隅に追いやられてしまいます。そのくせ、神社で結婚式をやります。でも、あれは、二人の愛を祝福しているのではありません。あくまでも共同体のために、子供を産んでほしいと願っているのです。
 とすると、最近の日本の出生率の低下は、若者の神道への挑戦だと見ることもできそうですね。 (p.165)
 神道には国家の祭祀を司るような公的な性格があるから、このような見方をする人々がいたとしてもやむを得ないのだろうか。
 それにしても、最後の一文は、わざわざ、その理由を記すまでもないだろうけれど、出鱈目もいいところである。著者は神道に対して、正常な理解力が働かなくなってしまうほどの偏見を持っているのだろうか。

 

 しかし、それらとは全く関係なく、気づくことがある。
 そもそも、“愛はプライベート(私)な問題です” という断定は、著者のこの著書の中で一貫する「愛」に関する思考の枷になってしまっているのである。
 プライベートを離れた「愛」だってあって当然である。神道の愛は、著者のような思考の枷に嵌っている人には、とうてい正しく語り得ぬものである。
 キリスト教の愛においても、エロスの他にアガペという愛もあるのは周知なことであるけれど、この著書の中ではエロスとアガペに関しては一切言及されていない。
 仏教を専門分野とする著者なりの一貫性を著そうとしたのであろうけれど、はなはだ不完全な 『愛の研究』 である。
 
<了>


  神道の公的な性格を忌避したがっている著者の論考が、下記の書籍の中にもあったことを覚えている。
   《参照》  『宗教練習問題』 ひろさちや (新潮社)