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 四国、香川県高松市五色台にある、「喝破道場」 の様子が豊富な写真とともに紹介されている。
 「違う生き方」 を探して長期間逗留する人々以外にも、お遍路さんが道すがら投宿することもあるのだと言う。


【お坊さんと木魚の役目】
 「僧は勝友なるが故に帰依す」 といって、ずばぬけて人々を指導する必要はないのです。相手の能力に合わせられる能力を問われているのです。先走らず遅れず、ちょっとだけ前に行く、木魚のリズムと同じ存在なのです。
 木魚も、知らず知らずのうちに皆をひっぱっていなければなりません。お経を通して集団生活の大事なことをたくさん学びます。 (p.83)
 チャンちゃんにとって木魚は、子供の頃の印象のままに、“遊び道具” というイメージで固着している。だから、お経の最中であろうがなかろうが、あれを見ると無性にひっぱたきたくなってしかたがない。
 ところで、木魚の魚ってフグだろうか? その正体を明かしてもらったことはない。それにしても陸に上がってなおかつひっぱたかれても決して凹まない魚って、すごい根性がある。それに、木魚の音は眠気を誘う。だから、「僧は勝友=木魚のリズム」、という説明は、からっきし解せない。

 

 

【スポーツチャンバラ】
 読経や座禅や農作業といったもの以外に、日課の中にスポーツチャンバラが組み込まれているらしい。
 スポーツチャンバラが、私にとって禅の修業とリンクしたのは、ある日の1対5という試合でした。
 1対1の時には、相手の出方を頭で考え、予測します。・・(中略)・・。しかし、1対5となった時、頭で考える予測の対応は何の役にも立ちませんでした。まさに「無心の対応」を迫られたのでした。 (p.111)
 スポーツチャンバラにおける無心、即ち、「動中の静」である。

 

 

【禅の基本 ~作務のちから~】
 禅の修業の基本は、行うべき目の前のことに集中する、というものです。

 清掃は、汚れているかいないかは関係なく、箒を使い、雑巾を使って、掃くこと、拭
くことに集中します。
 ただただ無心で清掃するのです。
 ハーブ園の草むしりも同じです。
 ただただ焦ることもなく、飽きることなく無心で草むしりをします。
 典座(料理長)は、与えられた仕事を無心でします。
 胡麻を摺る時は、胡麻に集中します。ただただ何時間でも、胡麻をすります。

 禅の修業は、なぜこうも目の前の事に集中せよというのか。
 そうすることによって、目の前のものと自分が一体になることが出来るからです。
 胡麻と自分が一体となる。擂り鉢が私で、擂りこぎが私なのです。
 そこには擂られる側と、擂る側という対立関係がありません。
 好き嫌いのない、差別のない、三昧の境地がいつでも自分のものになるのです。 (p.130-131)
 「目の前の事に集中する」 とは、表現を変えれば、「只今に生きる」 ということでもある。
 私たちが日常生活で使っている、「ただいま」 はお坊さんたちが修行の基本としていた言葉が、日本人の日常生活用語として根付き残ったものである。
 「ただいま」 については、下記リンクに書いた。
           ● 宗教的な視点から (その2 : 『ただいま』 を キーワードとして )
 
<了>