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 チャンちゃんにとっては 「大草原」 を想起させるモンゴル。 2001年初版の著作なので、大相撲関連のことは一切記述されていない。むしろ望むところである。 この書籍には、モンゴルを中心地として世界中で活躍している中里豊子さんという女性音楽家の、モンゴル認識に関する表現が随所に記述されている。 著者は、この書籍について、
「ノンフィクションと言っても、やはり文学として書きたいと僕は勝手に思った」 (p.148)
 と書いている。しかし、日本語としての流れの美しさはあまり感じられず、助詞の使い方が不正確であったり、違和感を持ってしまう表現に所々で出くわす。 そうではあるけれど、モンゴルについて知りたい要求には十分答えてくれる本である。


【「モンゴル」という名称の起源】
 モンゴルとは国でもなければ民族でもない。はじめは一人の男が現れた。寒いシベリアの大地に火を求めて、孤独な旅に出る。そして長い、長い、旅の果てに、火の光を見つける。そこに一人の女性がお茶を沸かしながら歌っていた・・・・。
  ここに火がある、水もある
  氷も 雪も燃える
  わたしは炎の花
 火の発見だと彼は思わず叫んだ。火を永遠に信仰し、火から絵家院の力を得たいと想いを込めて、火を「ムンクガル」(永遠の火)と二人は呼んだ。それが「モンゴル」という固有名詞の起源であった。 (p.52-53)

 

 

【歌 : 自然という神様の声を人間の心に伝えるもの】
 モンゴル人は3人に1人が歌手だといわれるほどの歌好きだが、クラシックにはあまり目を向けていない。彼らに言わせると、歌は技法ではなくて自然にたよるとのことだ。彼らの生き方も、大昔からそのように延々と続けられてきたのである。
 ホーミーや馬頭琴でも広く知られているように音楽というものは、自然の音そのものである。歌手は一人の媒体に過ぎないものだと、彼らはよくいう。自然という神様の声を人間の心に伝えるものは歌であるという考え方だ。あまりにも宇宙的な言い方である。漢字文化に最も近かった民族であるにも関わらず、それを拒否してきた・・・・ (p.23-24)
 チャンちゃんは、日本語の言霊は “宇宙共生原音” であると思っている。
 広大な大陸の中心付近に位置するモンゴルに吹く風は、いずれの方角からの風であれ、比較的乾燥したものであるが故に、大気は冴え渡り、星は輝き、その音色を今も昔も響かせて続けている筈である。
 日本人のルーツの一つがモンゴル方面にあると感じられる根拠でもある。
 喋ることより歌うことの方が好きなモンゴル人。彼らは昔と変わりなくリズムに乗せた言葉で世界を記録しようとするのだ。
 玄人にしろ、素人にしろ、歌う時の感情表現に非常に深い心が込められている。これは生まれつき備わった血のようなものだと思った。 (p.87)
 モンゴル人に限らず、生まれつき神さまが好きな子供は、好んで歌を口ずさむような傾向があるもの。大和言葉で紡がれる日本語の童謡が、子供達の情操教育に適していることを忘れている日本人達の愚かさよ。

 

 

【「トーン」という天窓】

 ゲルには 『トーン』 という天窓がある。アランゴワがテムジン(チンギス・ハーン)を受胎するのは、その天窓から降ってくる黄色い光を受けてからという神話は今も生きている。トーンはまさに天とつながる窓なのだ。 (p.85)
 「天窓」、この言葉に憧れている。日本の家屋にはどうして天窓がないのだろう。チャンちゃんは星を見ながら、風のそよぎを聞きながら、毎日眠りにつきたいのに。

 

 

【李白の故郷】

 李白は、今の中央アジアのキルギス共和国のトクスク付近に生まれ、シルクロードよりの蜀――今の四川省に辿り着く。盛唐指折りの詩人の「遊牧」である。李白の瞳は淡かったかもしれないと推測する人もいる。 (p.120)
 漢詩の詩人なので漢族だとばかり思い込んでいた。李白の詩にあるスケールの大きさは、やはり四川省だけでは説明がつかないらしい。

 

 

【漢民族を飛び越えた日本とモンゴルの類似】
 不思議というか、偶然というか、それも当たり前というか、漢民族と隣り合っていながらも炒め物をほとんど食べないで、煮物を好む習慣や、黄、赤、黒という基調三色を尊ぶということなどが日本と似ていた。とくに色のほうが、歌舞伎を連想させる。
 どこへ行っても、懐かしいものというか、共通のものをいつも発見できる。それを歌がつなげてくれる。誰が誰に似ているということではなく、同じということだ。 (p.125-126)
 「ちゃんこ鍋」になじみやすいモンゴル人力士ということである。
 歌舞伎の屋号に「高麗家」があるけれど、関係があるのだろうか? モンゴルから出た者たちは高麗を経ぬことには日本に辿り着けないが・・・。

 それにしても・・・・風になってモンゴルの台地を吹き向けてみたいと思ってしまう。
 そして、崑崙山脈と天山山脈の縁を経巡って、終にはタリム盆地に憩うのだ。

 
<了>