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 空手を通じて日本文化にふれることとなった著者の著作だけに、武士道とユダヤの文化に関する比較は興味深い。

 

 

【「アヌービー」 そして イスラエルという国名の由来】
 イスラエルのユダヤ人が使うヘブライ語に、「アヌービー(われらの父祖)」 という表現がある。これはユダヤ人のはじめの父であるアブラハム、その息子のイサク、そしてイサクの息子ヤコブを指す特別な表現である。そしてその3番目の父祖であるヤコブが、後に改名してイスラエルという名前になるのである。これは現代のイスラエルという国名の由来でもある。 (p.108)

 

 

【モーセの手】
 モーセが手をあげているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクがかった。
                -------------(旧約聖書 出エジプト記17章8から11)
 モーセの手が上がり、イスラエルの民が上を見上げた時、というのは神への信仰心と力を表している。その時彼らは霊的な力を受け、敵対する最も残虐な敵との戦いを征することができる。しかし、己の力だけに頼り、神への信仰を失う時に、彼らは敗れるのだ。
 ここでも再び日本の武道のテーマとよく似たメッセージが存在する。それは、肉体の力や技術にはある特定の可能性は秘められているが、それらは限られた力である。戦いに勝利するにためには、精神的なまた霊的な力というものが、その人の内側に開かれている必要があるという点である。  (p.44-45)
 どのスポーツであれ世界の超一流アスリートの世界では、イメージトレーニングは当然のこととして用いられている。イメージ力とは即ち霊力である。そこで用いられるイメージ力が、単に個人の成功を望む程度のイメージなのか、あるいは、民族や国家の繁栄・平和を望むイメージなのかで、その霊力の差は歴然としたものになる。民族や国家に関わるイメージは、ユングの言う集合無意識の領域に入るので、個人のイメージの範疇からは懸け離れた飛躍的な現実形成霊力となる。
 日本の宗教家として抜群の霊力を誇った日蓮は、“我、国難の柱とならん” とする自覚を持っていたが故に抜きん出ていたのである。神力は自分自身の幸せだけを願う霊力の中に、その威力を顕すことはない。
 著者は、自らの命を惜しまないイスラエル軍の精神や、旧約聖書の中に語られている英雄的自害を遂げたサムソンの事例を述べた後、こう記述している。
 それはまさに武士道の生き様に通じるものがある。民族のために自分の生命を捧げても惜しくはないという、この精神こそ、先の大戦で祖国のために散華した日本人の精神にも通じているのではないだろうか。 (p.84)
   《参照》  『フォトンベルト 地球第七周期の終わり』 福元ヨリ子 (たま出版) 《中編》
             【神武天皇】
             【サムライ精神】

 

 

【モーセは乏しい】
 「モーセは乏しい」という表現があるが、これは聖書の中の最も偉大なリーダーといわれた人ですら、神との関係においては「乏しい」のであるということをメッセージしている。それゆえこの表現は人を貶めたものではなく、その存在の大きさを示したものである。
 日本の武道でも似たようなことがある。それはレベルが高くなるほど、より戦う相手を尊び評価することを学ぶのである。尊大な心やうぬぼれなどは人の内面にとって最も大きなつまずきの一つである。そういった心は、戦いに際し、相手の能力がどの程度であれ、大きな危険をもたらす原因になる。 (P.63-64)
 「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」 という日本の諺が、聖書流にいうならば、「モーセは乏しい」 になる。
 「自然は神なり」 とする日本は、自分自身の中に内在する神の顕現を稲穂に託した比喩として表現し、ヤハウェに導かれるイスラエルは、祭主であるモーセを媒介者としてダイレクトに表現している。
 「ヤハウェ=一神教」 のイスラエルと 「八百万の神々」 からなる日本。だから、「ユダヤ教と日本神道は全く違う」 と考えるのは、素人の考えである。
 神道には “顕現神” という考え方がある。日本国内には同一主祭神の神社がいくつもある。その中で最も多いのは八幡神社である。一つの神は複数に顕現できると考えているからこのようなことが起こるのである。そして 「呼び名が変われば、働きが変わる」 という言霊の霊力を加味すると、一神が八百万の神々に顕現できるのである。「一即多、多即一」 というホロンの概念はこれを表している。

 

 

【弟橘媛(おとたちばなひめ)】
 古事記に、日本武尊(やまとたける)と弟橘媛に関する記述がある。
 夫(日本武尊)の命を救おうとした弟橘媛は、海神の怒りをなだめるために、荒れ狂う波間に身を投じたのだ。
・・(中略)・・
 日本武尊は妃の死を悲しみ、その地から去るに去られず、海辺で泣いていたことから、その地は 「木更津(君去らず)」 と名付けられたという。
 三浦半島の走水神社には、弟橘媛が入水する時に詠った歌を刻んだ歌碑がある。これは、明治時代に東郷平八郎元師、乃木希典大将らが建てたものだ。その歌碑にはこう刻まれている。
 「(弟橘媛の)貞烈忠誠 まことに女子の亀鑑たるのみならず 亦以って男子の規範たるべし」 と。このように、一身を犠牲にしてでも、大義のため、愛に報いるために生きる姿を尊ぶ精神が、日本人には古来からあったのである。 (p.88-89)
 木更津の地名の由来や、走水神社の句碑に刻まれている文言を、私は恥ずかしながら知らなかった。教えていただいた著者であるイスラエル大使に感謝。

 

 ところで、日本の神話(古事記)に記述されている弟橘媛のことなど露知らず、「夫婦別姓」、「男女同権」 を主張する “日本の教養なき女性たち” に究極的な質問をしたい。
 「もしも戦争になった時、あなたは銃を持って戦場に立つ覚悟はあるのか? 国や家族を守るために自らが犠牲となって戦場に立つ覚悟が、あ る の か ?」 と。

 

 

【イスラエル人のノーベル賞学者】
 チェヒノベル教授といって2004年にノーベル化学賞を受賞された方だ。
 私は彼にこんな問いをしてみた。
 「チェヒノベル先生、なぜノーベル賞を受賞された後も、日本の大阪大学で研究を続けていらっしゃるのですか?なぜアメリカやヨーロッパではないのですか?」
 「わたしの大阪や京都とのつながりは今にはじまったことではありません。すでに10年以上続いていることです。日本の研究者のレベルはその人間性においても、技術的にも非常に優れています。だからわたしたちの付き合いは、私にとっても日本の研究者にとっても、とても有益なのです」 と。 (p.220)
 日本で研究していたイスラエル人のノーベル賞受賞者がいたとは、全然知らなかった。
 ところで、この文章に先行する記述では、イスラエルも日本も、資源の乏しい国でありながら、繁栄していることの原因を、「これはまさに人間力だと思う」 と記述している。
 イスラエルと日本、そこに共通する人間力は、民族の背後にある神の力と切り離しては成り立たない。 
 
<了>
 

 

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