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 子供の教育に関する著作かと思いきや、クエーカー教徒の著者による書籍で一般的な教育書とは言いがたい。どうでもいいことではあるが、著者の旦那様は著名な経済学者のケネス・ボールディングさんだという。


【孤独が当然】
 
一人で過ごす時間、音楽であれ、映画であれ、読書であれ、何かしらに没頭しているならマイナスの意味での孤独は感じない。何事にも没頭できない状態の時、人は孤独を不安や淋しさとして感じるものである。
 チャンちゃんは、映画館へは一人で行くものだと思っている。知っている人が隣にいると映画に没入できないのだ。2人で行った映画に何かしら感じ取れなかった心残りがあり、再度一人で行って見たら涙が止まらなかったことがある。先天のホロスコープにも拠るのであろけど、チャンちゃんの場合は本質的に一人であるほうが何かにつけ相応しいようだ。
 学生の頃は、コリン・ウイルソンの 『アウトサイダー』 をいつも本箱の中央に置き、デスペラードやソリティアーの歌詞を好み、象牙の塔という言葉を任意に解釈して、あまりアパートから出ず、現実的な想いとの間に揺れながら、極北の思考を弄びつつヒヨッコ生活を楽しんでいた。そしてしばしば青い嘴をへし折られ現実に打ちのめされていた。
 打ちのめされることが幾度あろうと、基本的に孤独は良い事づくめと思っているから、チャンちゃんは、この本をその確認作業として内容を探ったのである。しかし、この本に記述されているのは、チャンちゃんが想定していた世俗的な意味合いの孤独というよりは、背後に宗教的な意味合いを多分に含んだ孤独であったようである。



【クエーカー教徒 と 惟神人(かんながらびと)】
 わたしが知り合ったクエーカーの人たちは、非常に知的で、開かれた心の持ち主でした。いわゆる宗教くささはまったくなく、信仰についてことばで語ることはほとんどありませんでした。けれども何とも言えず清潔で和らいだ雰囲気を漂わせており、それがどこか深いところから来ていることを感じさせるのでした。若いときの生意気な感じ方ですが、わたしは、このとき、ここには “上質の” 人間がいるな、と感じたものでした。 (p.90) 

 と訳者はあとがきに書いている。
 12/1の読書記録の中にも書いているように、天皇家の家庭教師がクエーカー教徒であったそうだが、ドグマなき神の道を歩む惟神人との類似性が多分に感じられる。
 孤独(ひとり)を神道的に解釈しようとするならば、大和の国の言霊を辿れば良い。“ひとり” は “霊(ひ)鳥” であり、アニメ的な視覚で捉えるならば、“火の鳥” つまり “神の使者” である。“使者” は言霊上 “死者” でもある。死を怖れる程度の志では使者にはなれないということなのだろう。

日本文化講座⑧ 【 武士道 】

『 武士道は不死鳥である 』


【孤独(ひとり)の祈り】
 宗教的な視点で孤独を考えるならば、どうしても祈りという行為に結びついてしまう。しかし、祈りは、本来、宗教に特定されるべき行為ではない。集合無意識を語った心理学者のユングの自叙伝に、幼少の頃、祈りに没頭する時間が多かったと書かれていたのを覚えている。ユングのように、積極的に孤独(ひとり)の時間を祈りに費やすことはとても重要なことなのに、メディアに囲まれ経済生活に翻弄されている現代人はその重要性をすっかり忘却してしまっている。
 古代の人類は、夜、満点の星を見上げながら、あるいは揺らめく炎を見つめながら、畏怖すべき自然の中に晒されている自らを想い、あるいは他者の安否を気遣い、ひたすらなる静寂の中、祈りに没頭する時間が極めて長かったのではないだろうか。
 人生を苦と見たブッダは、自らの生涯を終えるに及んで 「法灯明、自灯明」 を語ったのに、後世の教団は、独善的な法解釈をドグマ(教義・教学)化し、教祖崇拝の作為を押し付ける。「自灯明」 ではなく 「教祖灯明」 である。これは、本来ありうべき 「法と自らの接点となる孤独(ひとり)の祈り」 を忘れさせ、轍を変えて教団の組織維持拡大のために信者を驀進させるための、明々白々かつ露骨な教団のエゴである。
 ドグマの甲冑に身を固め、教祖崇拝に疑問を抱くことなく、遮眼帯を付された競走馬のように走らされている愚かかつ気の毒な宗教信者達には思いも寄らないことであろうが、知っておいたほうがいい。ご利益信仰から抜け出て、ひたすら人の幸せのみを祈り続けるならば、ある時点から、その人の体は光に満たされ重力から解放されるのである。 

『聖母の宝石』 王麗華 (憧憬堂)

【祈りとは】

 

 

<了>