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 著者は松下電器に入社し、広報部、営業部歴任の後、松下政経塾塾頭をされていた方。経験に基づいて書かれていることだけに引き込まれやすい。書籍の大部分をさいて清掃に関することが書かれていた。


【清掃に関する塾生の反応にビックリ】
 海外から来た塾生は、異文化経営学の一環として清掃を受け入れるが、日本人の塾生たちは、学ぶべきことはいっぱいあるのに清掃なんかに時間を割くのは勿体ないと言って清掃をしなかったり、あるいは、清掃の意義を逆に質問したりするのだと言う。
 松下幸之助さんは 「思いは大きく、しかし、本当の実践は、まず身の回りを清掃するところからしかはじめようがないという事実に気がつかなければだめだ」 という。(p.144) 

 清掃こそは、「一事は万事」 の一事に該当すると。仏典のシュリハンドクの清掃の話なども例えにあげて説明している。
 松下幸之助さんは、日本という国家のため、あるいは世界のために松下政経塾を立ち上げて8年経っても、塾生たちの清掃に対する認識があらたまっていないことを知り、

「・・・これではどうにもならんな」 (p.96) 

 と言っていたという。


【素直さをなくした頭デッカチに、知識は学べても智慧は獲得できない】
 松下幸之助さんは、心学的な経営の基礎あるいは根の部分の重要性を語っているけれど、日本人の塾生たちは幹や枝葉の部分しか見ようとしていない。
 松下政経塾に入塾を許可されるような将来を嘱望される人々でありながら、そもそも、強制ではないにせよ塾の規矩に従おうとする “素直さ” がどうして無いのか、私にはそのことの方が不思議であった。(私なんか、妹の指示に 「はい」 といって素直に従っている。屈服しているのではない。マゾっ気があるというのでもない。身をもって日本文化を教育しているのだ)
 政経塾の塾生達は、実用に供しうる知識以外は必要ないと考えているらしい。しかし、政治や経済において分析できるものとできないものがある。あるいは分析の対象データ項目として数量化できないものがある。そういったものこそが重要なのに、どうしてそこに意を払おうとしないのか。因子分析という解析手法を学んだことがある。その結果の解釈において、「定量的な結果が必ずしも定性的な事実を意味するものではない」 ことくらい学んで知っている。前提においても結果においても数値として提示されうる資料的な知識というのは実に不完全なものだと思うのだが・・・。
 知識は誰でも学べるが、優れた智慧は素直な心を持つ人にしか学べない。(「素直」 とは、漢字を分解すると、主から糸が真っ直ぐである状態を意味する。究極の主とは神であろうか? 天であろうか? いずれにせよ、主とは人智を超えたものだろう)


【場のエネルギーを高めるのが、清掃の原意ではないのか】
 清掃の原意は、場のエネルギーを高めるための第一歩ではないだろうか。その上で、人の調和、あるいは、人と神との調和が、更に、場のエネルギーを相乗的に高めることになるのではないか。
 武道であれ茶道であれ神道であれ、日本文化のあらゆる 「道」 において “清める” ことは第一になされることである。清めることにおいて、内(精神)と外(環境)は不可分なものである。高貴な目標を達成せんとする精神にとって、それに相応しいエネルギー場の準備を整えることは、必要不可欠な絶対条件ではないのか。
 さて、私は自分の部屋の清掃をせねば・・・・・・・。


【ハッとした話】
 ミャンマーの有名なお坊さんの話を聞いて、日本人の団体の人がみんな涙を流したというんです。大感動したというんです。最近は少々のことでは感動しないですから、はるばるネパールやインド、ミャンマーまで感動を求めて出かけているのが日本人の姿だというんです。
 そのときそのお坊さんがこう言ったそうです。「日本人も感動を求めてさすらうだけではなく、あなた方が感動を与えるような民族にならなければだめだ。あなた方の生きざまが人々に感動を与えるような生き方をしないと、あなた方が感動を求めて世界中を渡り歩いているような生き方をしているうちは、日本人は決して人に尊敬されない」 と。(p.194)

 

<了>