エンライトの未発表原稿をアップしました。(代理人さくら)
覚醒者のダンテスダイジ師はわずか37歳でこの世を去った。
ガス自殺だったという。
同じく無明庵EO師も若くしてこの世を去ったという。
某氏によれば 「宇宙の真実に絶望して自殺した」 という。
本当はまだ生きているのだが (弟子を名乗っている某人物こそEO師の正体である)、プロフィール上では亡くなったことになっている。
それはともかく、不可解な最期を遂げた覚醒者は多い。
それは一体何故か?
何が原因だったのか?
私の調べによれば、世に出ていない無名の覚醒者が若くしてこの世を去ってしまう例は多い。
釈迦は生命エネルギーの正体を 「煩悩」 だと見破った。
その束縛から解き放たれた者は、必然的に生命エネルギーが減少する。
釈迦のような長寿の覚醒者もいるが、これは例外。
早死にする覚醒者の方が多い。
病死が多いが、自殺もまた多い。
これも一つの特徴かもしれない。
だが、そのような事例を基に、彼らをインチキ呼ばわりする者も多い。
「本当の覚醒者なら幸せに生き続けるはずだ」という理屈である。
ダンテスダイジ師に対しても、「自殺するような奴が本当の覚醒者であるはずがない」 と批判する人を何人も見かけた。
自殺を罪とするキリスト教的な考えが根底にあるのだろうか?
少なくとも仏教では、自殺を罪とは見なしていない。
釈迦はある弟子の割腹自殺を認めている。
師の釈迦の許可を得て、自死を選んだのだ。
元々、仏陀釈尊も菩提樹の下で覚醒に至った時、「もはやこの世に存在し続ける意味を失った」 と語っている。
そのままニルヴァーナに帰還しようとしたのだ。
最終的には梵天の説得により、この世に留まり、法を説くことになったわけだが…、覚醒者にとってこの世で生き続けることは絶対条件ではない。
先ほどの 「宇宙の真実に絶望して自殺した」 という言葉だが、そういう覚醒者は実際にいる。
あるいは、絶望はしないけど、この世への執着が消えたために死を選んだ覚醒者もいる。
現代の多くの自称覚醒者が、悟りの世界に対して、絶対的幸福という価値観を与えている。
「ノンデュアリティの世界は無条件の愛です。永遠の至福の境地です」
こんな脳内お花畑メッセージの影響を受けた人々が、覚醒や悟りに対してポジティブなイメージを抱く。
悟りの世界って素晴らしいんだ、という憧れの念を抱く。
まさに知識だけ。観念だけ。
何の根拠もない。
頭が固定観念の塊だから、死を選んだ覚醒者に対して 「この人は偽物だ」 などと短絡的なジャッジを下すわけだ。
だが、悟りの世界は本当に素晴らしいのか?
絶対的な至福の境地と言えるのか?
貴方はそれを体験したのか?
殆どの人は何も体験していないだろう。
頭に詰め込んだ 「悟りに関する知識や個人的な思考」 に基づいて、無根拠なジャッジをしているだけである。
只の思い込みでしかない。
中途半端な神秘体験に囚われて、
覚醒って素晴らしいとか、非二元は無条件の愛の世界です、無限の優しさなのです、と説きたがる重病人もいる。
彼らは耳触りの良いことばかり説いている。
自我意識の強い人は、個を否定するメッセージに不快感を覚えるかもしれないが、彼らはそれを凌駕する 「美味しい餌」 を用意している。
人々が悟りの世界に憧れるような罠を仕掛けている。
「宇宙の全体性」 という餌をね。笑
それは無限の至福であり、この上もない愛の世界だと…。
「個は無い。全体があるだけ」 「全ては全体の現れ」 が彼らの常套句である。
だが、そんなものはない。
個が幻なら全体も幻である。
真のノンデュアリティには何もない。
絶対的な虚無でしかないのだ。
至福だの絶対幸福だの愛だの、もし何らかのポジティブな要素があるなら、その 「何か」 を成り立たせる諸条件に支えられていることになる。
故にその時点で、もはや無条件ではない。
絶対的なものではない。
全ては縁起 (相関性に基づく条件) によって成立しているに過ぎない。
故に、その条件が変化すれば、愛も崩壊する。至福も崩壊する。
だから諸行無常というのだ。
仏教の僧侶の中にも、悟りの世界に対して絶対的な価値観を持ち込んでしまう馬鹿が多い。
「たとえこの世が幻だとしても、その世界に生まれたのはやはり素晴らしい事であり、感謝すべきである。
それが出来ずに、厭世的になる人は本物の覚醒者ではない。中途半端な奴だ」
などと得々と語るのである。
こんな輩はもはや仏教徒でもない。エセ坊主に過ぎない。
宇宙の本質は絶対的な虚無である。
故に、我々の現象界も本質的には幻に他ならない。
だがその真実を直接的に悟ることは出来ない。
なにしろ 「悟る自分」 さえ存在しないのだから。
それが非二元のステージである。
自分が消えれば、宇宙も消える。
自分がない以上、真実を認識することも不可能だ。
だが、間接的に悟ることは出来る。
覚醒者が説いている宇宙の真理とやらは、全て間接的に悟ったものである。
それが観照と呼ばれているものだ。
非二元に没入した人がそのままでいれば、死に至る。
魂すら消滅する。
だが覚醒体験の後で自我の世界に戻った人は、生命の歩みを観照し、あるポイントに
「全ての体験が無く、体験の世界との繋がりもない」
という事実があったことに直面する。
覚醒者はその時、全てが無であることを知るのだ。
宇宙に目的は無く、人生にも目的は無い。
何の価値もない。
高尚なものは何もない。
何もない以上、高次元も低次元もなく、善も悪もない。
全て同じである。
幻に過ぎないのだから。
だが逆にいえば、この世には全てがあることになる。
なにしろ幻なのだから、何でもありとなる。
夢の中ではスーパーマンになるのもお姫さまになるのも自由だ。
物質的な制限はあるが、その範疇ではあらゆる価値観を創造できる。
故に、この現象界に善悪や清濁があるのは当然だし、高次元や低次元という尺度を当てはめるのも当然だ。
自我は幻である。
だが、その幻のお蔭で、あらゆる体験も出来ることになる。
覚醒者といえども、この世で生きている間は何らかの自我意識が残っている。
故に、その自我が宇宙の真実に絶望するのは当然の反応だ。
何しろ全ては無に帰するしかないのだからね。
どんなに素晴らしい人に出会っても、どんなに素晴らしい体験をしても、どんな素敵な思い出を作っても、全てが消え去る。
完全に無に帰す。
無に帰する以上、そこには一切の絶望は無く、幸福もない。
だがそれは自我にとって最大のピンチを意味する。
それが自我の反応なのだ。
全てが無に帰するしかないという真実に対して、耐え難い苦痛や絶望を感じるのは自然なことではないか。
故に、宇宙に絶望して死を選ぶ覚醒者がいるのも当然なのである。
彼らは偽物ではないし、中途半端な覚醒者でもない。
むしろ宇宙の真実に妥協なく、徹底的に知り尽したからこそ起こる自我の反応なのだ。
中途半端なのはむしろノンデュアリティや覚醒の素晴らしさをアピールしている連中だ。
阿部敏郎や大和田菜穂とかね。
もちろん、自我の反応はすべて幻だから、基本的になんでもアリである。
宇宙の真実を悟った人が強烈な至福意識に包まれる現象は起こり得るだろう。
絶望を感じる人がいれば、至福を感じる人もいる。当然だ。
だがそれらは全て、宇宙の真実そのものではない。
非二元そのものではない。
その次元を知った人の自我の反応に過ぎない。
つまり、幸福も絶望もすべて自我の範疇の話なのだ。
非二元そのものには何もない。幸福もなければ絶望もない。
だが、現代の多くの非二元メッセンジャーは、あたかも非二元そのものが至福の世界であるかのように説いている。大嘘を吐いている。
彼らは最も悪質なスピリチュアル犯罪者だと言えよう。
逆に、絶望を説く覚醒者の中には本物が多い。
彼らは宇宙の真理と絶望をイコール関係にしていない。
宇宙の真理ステージが絶対的虚無であることを知った上で、その 「反応」 としての絶望感を口にしているだけである。
あるいは悟りの世界に変な理想や期待を抱いてる人に対して、その観念を崩しにかかっているわけだ。
その意味で、無明庵EO師やダンテスダイジ師は正真正銘の覚醒者だと言えよう。
そして、そこには何の価値もない。
○○様…などと崇拝するような対象ではない。
最終段階の覚醒に至った人は、宇宙に何のエネルギーも与えなくなる。
宇宙の存続に関与しなくなるのだ。
故に宇宙側から観れば、彼らは単なる落ちこぼれであり、反逆者である。