こんにちは![]()
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笑いと癒しの音楽クリエイター、セシリアみつよです
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いつも読んで下さって、どうもありがとうございます
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1000ピースのパズルの1つがなくなった
。
「ま、いいっか。その内出て来ますやろ
。外で失くしたけちゃうし」
というのが、『手離し』『脱執着』かなぁと思います
。
手離しって、別に自分の側から遠いとこにポイッ
て、するわけではないと思うのです。字のまま。『手・離す』。
こう、ギュッと掴んでいたものを、ふんわりと力抜いて離すだけ
。
だから、別にその手のひらに、それがおってもええねん。
それがそこにいたかったらおるやろし、いたくなかったらどこかいくやろし…程度に思ってたらいいのかなと
。
ずっとその間、「どこいったんやろ
、あのピース」と探しまくってる時間、それの事ばかり考えてる不毛な時間。それよりまぁ、その内出て来ますやろ、と他にせなアカン事をした方が建設的ちゃうかなぁと、思います
。
その「どこいったんやろ
、あのピース」と探しまくってる時間の心が『汲々(きゅうきゅう)としている』という感じ。
「ま、いいっか。その内出て来ますやろ
。外で失くしたけちゃうし」というのが、『綽々(しゃくしゃく)としている』という感じ。
この『汲々』と『綽々』は、反対語です
。
何か達観しとること言うてるけど、別に達観してなくて、ヒトである以上、日々揺らぎます。「そうか。そういうことか
」と閃いたとして、そこから雪崩の如くこの世の理(ことわり)を理解し、それが持続していったならば『大悟』し、『諦観』したとなるんでしょう
。
『諦観』の本来の意味は『明らかになる』で、そこから『あきらめる』になっていったのでした。
何が明らかになるかと言えば、この世の真理に気づくという事です
。
実際悟りを開く人は、もうその位置にいるわけで、揺らがない。
こっちいったりあっちいったりしない。
ただ、凪いでる感情、動かない信条、生きていてその位置にいるのでしょう
。
日々生きて行く上で大切なんは、ずっと執着するとか、そういう位置にずっといるのではなく、ある位置でじっと汲々とするのではなく、もう1つの位置と言うのが存在して、そっちもありだよと、緩和してあげるのも心には必要かなと思います
。
「あれが欲しいな~
」と思う日もあれば、同じものを別にどうでもいい時もありますやん
。
それでいいのとちゃうかなぁ
と、私なんかは思うのです
。
例えばサラリーマンの営業職の人なんか、めっちゃ成績のいい時もあれば、悪い時もあるでしょう
。
ほんで、良い時はあんまり何も考えないけど、悪い時は「あ~、あれもっと売れへんかなぁ
」とか「あ~給料減るやん
」とか思ってしまうかもしれません。
「売れへん」という所に執着してたら、表情のどこかに、雰囲気のどこかに、出て来るもんです。それが永遠に続くとは限らんし、たった30分だけでも「せやな~、別に明日から生活に困るわけで無し、ま、そんな時もあるさ~
」と、「汲々」を「綽々」に変えれたら、意外と全然違うのとちゃうやろか![]()
と、能天気な私などは思うのです。
現に、私はそうやって生きて来てるし
。
何とかなってるし
。
今も「欲しいもの」あります
。
それはしゃあないんです。
もう、手に入らないんです
。
だって…「ふにちゃん」ですから
。
ふにちゃんがいない心の空間、他のネコで埋めれるかと言えば、埋めれないです
。
そっくりのネコを飼っても、そっくりだからこそ「違うのだ」と思い知らされるでしょう
。
『源氏物語』『源氏物語・宇治十帖』にしても、愛する女人とうり二つの女人を育て上げる、あるいは、ソックリな女人を見つけて囲ったり。
そしてソックリであればあるほど、ほんの少しの違いが、「その人ではないのだ」と突きつけられる主人公たち
。
それが、今はよくわかります。
でも、ふにちゃんがいなくなっても、きっとその内に、時間はかかるでしょうけれど、「悲しい」とか「つらい」とか「後悔」とか…それもすべて思い出になったら、もしかしたら、新しい家族としてネコさんが来るかもしれない![]()
。
そういうもんだから…
。
引き寄せって、そういうもんだから
。
欲しい欲しいと思ってる内はダメで、それこそ『諦観』に近い心になった時にやってきたりします。
その時に、全然別の存在として、愛する事が出来るのかも知れない…と思います
。
つづく![]()
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